去る2月24日、元日本軍捕虜で「バターン死の行進」生還者のレスター・テニー氏が96歳で逝去しました。
彼との出会いは1999年春、原爆投下に関してアメリカ側の視点から記事を書こうとしていた私が、大牟田の捕虜収容所から長崎原爆のきのこ雲を目撃したというレスターにインタビューしたのが最初でした。三井三池炭鉱でのつらい強制労働の思い出も語ってくれましたが、日本人への憎しみは全く感じられず、それどころか「日本の若者に僕の体験を語りたいんだけど支援してくれないかな。きっと素晴らしい交流ができると思うんだ。」と頼まれました。
私はレスターとの出会いについて、すぐ友人のエブラハム・クーパー師に知らせました。(レスターは偶然にもユダヤ人でした。)そして、「彼の回想記を読んでみて。きっと会いたくなるから」と言ってレスターの著書「My Hitch in Hell」を手渡したのです。その後私は、クーパー師を連れてまたレスターを訪問しましたが、彼もまたレスターの変わらぬ支援者となりました。
そしてレスターの著書の日本語版が出たとき、クーパー師は表紙に短い推薦文を書いてくれました。
「レスター・テニーは、日本人を憎んだり残酷だと決めつけたりはしない。過去を忘れないことを求め続ける。太平洋の両岸に生きる全ての人々が、かつての出来事を共有し、相互に思いやりにみちた未来をつくり出すために。」
また『文芸春秋』が2006年、「バターン死の行進」に関する歴史修正的記事を掲載した時、レスターともう一人のバターン生還者ボブ・ブラウンをサイモン・ウィーゼンタール・センター「寛容の博物館」に呼んで記者会見を開いてくれたのも、クーパー師でした。
その後クーパー師と私は、日本の政府高官や東京の米国大使館を訪ねるたびに、レスターが目指す「つらい過去であっても、日米の人々がそれを共に学び、友情を深めていく」ことを訴えました。信念に支えられたレスターの努力もあり、目指した多くのことが実現したのは嬉しいことです。
友人を失ったことは悲しいですが、レスターとの友情は、言葉で表せないほど私たちの人生を豊かにしてくれました。