反ユダヤ主義(15年前の記事から)

ここ数年、「反ユダヤ主義の蔓延は第二次大戦以来最悪だ」とする声が欧米のメディアで聞かれるようになり、それを裏付ける事件も多発しています。

ユダヤ人と接する機会が少ない日本でも、根拠のない反ユダヤ主義的言論がこれまで無かったとは言えません。それらは概して、日本人が「ユダヤ人陰謀説」に魅せられやすいという傾向と無関係ではなかったと思います。

9・11の連続テロ多発事件の後の日本では、アメリカでネオコンと呼ばれたグループとユダヤ人を結びつける論評が多くみられました。

当時そのことに違和感を持った私は、数人の著名なユダヤ人の支援を得て、記事を書いたことがありました。もう15年以上前の内容ですが、国連の反イスラエル姿勢など、その後も全く解決されていません。また、これらのユダヤ人指導者たちが、一日本人の質問に誠意をもって答えてくれたことに、改めて感激します。

これからも機会を見つけて、ユダヤ人やイスラエルへの理解促進にささやかでも貢献していきたいと思います。

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再び杉原領事について

1997年、私はホロコーストの歴史を伝える人々へのインタビューをまとめた『忘れない勇気』という本を出版しました。その中には、杉原領事のビザで救われたリオ・メラメド氏や杉原領事の伝記を書いたヒレル・レビン教授へのインタビューも含まれていました。

翌年、それを読んだ月刊『論座』の当時の清水建宇編集長から、杉原ビザの意味について記事を書いてみませんかと誘いを受け、私の思いも込めた記事を書きました。20年近く前の記事を久しぶりに取り出して読んでみようと思ったのは、最近二つのニュースに感じることがあったからです。

一つは、今年のHolocaust Remembrance Day(アウシュビッツが解放された1月27日)に、インターネット上で行われた「We Remember」というキャンペーンに、日本政府が投稿したことです。

January 27 is . Chiune Sugihara was a Japanese diplomat during WW2 who saved the lives of thousands of Jews by writing visas for fleeing families. Today, several museums in Japan preserve their stories. Learn more:

リンクされた日本政府のサイトは、日本国内にある杉原氏関連の3つの博物館を紹介し、こう結んでいます。

These museums and the stories they tell call young and old alike, in Japan and from abroad, to reflect deeply and work with courage and kindness for a peaceful, more humane world.

杉原氏の偉業を広く世界の人々に知らせる機会になったと、嬉しく思いました。

しかし数日後、現在のリトアニアで起きているある出来事に関するニュースを読み、深く考えさせられてしまいました。それは、リトアニアがホロコーストの共謀者であったという歴史を書いたリトアニアの女性作家ルータ・ヴァナガイタさんが、国内で非難され孤立しているという内容でした。

イスラエル紙『ハアレッツ』に掲載されたルータさんに関する記事:https://www.haaretz.com/world-news/europe/lithuanian-writer-refuses-to-stay-silent-on-country-s-part-in-shoah-1.5786267

この記事によると、ルータさんは、サイモン・ウィーゼンタール・センターのエルサレム所長で、自分自身もリトアニアで殺害された大叔父を持つエフレム・ズーロフ氏と、リトアニア国内の40か所のユダヤ人殺戮現場を訪ね歩き、それを目撃した地元の老人たちの証言を聞いたそうです。そして公文書館でのリサーチで、彼女自身の叔父や祖父も、ユダヤ人殺戮に関わっていたことを発見します。ナチスとの共謀は、一部の暴徒だけではなく、リトアニア政府関係者や軍なども関わった大掛かりなものだったとルータさんは書きました。

2016年に出版された 『Our People: Travels With the Enemy』は瞬く間にベストセラーになりましたが、年配の人々や保守的なグループからは激しく非難されました。さらに昨年には、ルータさんが、ソ連軍に抵抗してリトアニアの英雄とされている人物が実際はそうでなかった疑いがあると言及したことを発端に、彼女の著書は出版社によって全て書店から引き上げられ、著名な政治家が彼女に自殺を勧めているともとれる意見記事を書くほどの事態になりました。ホロコーストの歴史と真摯に向き合う努力をしてきた西欧の国々に比べて、東欧の国々は未だにホロコースト時の自国の歴史を完全に受け入れていないと、ルータさんは感じています。インターネット上でも彼女への脅迫が続き、外出もままならないそうですが、それでも彼女は、歴史の真実を語り続けると宣言しています。

杉原ビザとの関連でリトアニアの国名を聞くこと が多い日本では、この国で起きた悲劇についてあまり知られていないように思います。

14世紀からユダヤ人が住み始めたリトアニアには100以上のシナゴーグがあり、首都ウィルナスは「北のエルサレム」と呼ばれるほど、ユダヤ文化が花開いた地でした。しかし杉原氏がリトアニアを去った翌年の1941年、ナチスが侵攻し、国内のユダヤ人の95%にあたる22万人が殺害されます。そして多くのリトアニア人がそれに加担しました。

ワシントンにあるホロコースト記念博物館の中でも、3階まで吹き抜けの壁に夥しい数の写真が貼り付けられた Tower of Faces  は感動的な展示です。それらはリトアニアにあったユダヤ人の小さな町の平和な日常を伝えるもので、ポートレート、家族の集まり、友人との語らい、卒業写真など、私たちの家族アルバムに貼られた写真と変わりません。この町は、ナチスの銃殺部隊が住人4千人全員をたった2日間で殺害したとき、数百年の歴史に終わりを告げました。

「死」ではなく「生」を展示することで、ホロコーストによって失われたものの深い意味と、そこから見学者が得るべき教訓を問いかけているようです。

20年前の記事で、私は、杉原ビザについてインタビューした人々のことをこう書いていました。「杉原氏の遺産を受け継ぐということは、自分たちの中にいる“杉原”を常に探し続けることなのだと、これらの人々は気づいている。」

そして、ルータさんがしようとしたことも、まさにそれではなかったのかと思えてきたのです。

私たち日本人も「杉原を誇りに思う」で立ち止まっていては、彼の遺産を真の意味で受け継いでいるとは言えないと思います。

ホロコーストに関する本を書いた後、私自身は18年間、旧日本軍捕虜だった米兵の問題に取り組んできましたが、今は黄ばんでしまった古い記事を読みながら、その歳月の間も、自分が杉原氏からインスピレーションを得ていたことを改めて感じています。

『論座』1998年9月号掲載記事

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ユダヤ人の歴史

1984年、4歳と3歳の子供を育てながらシカゴの大学に通っていた頃、公共テレビ PBSが放映した「Heritage: Civilization and the Jews」という9時間のドキュメンタリーを観たことがあります。聖書の時代から中世、近代、そしてホロコーストの悲劇を経てイスラエル建国に至るユダヤ人の歴史が、同時に人類全体の文明にどのような影響を与えたのかを、豊富な写真や興味深い資料で織りなした一大絵巻とも言うべき内容でした。シリーズを通して語り部を演じたのは、建国間もないイスラエルの国連大使、駐米大使、後に教育文化大臣、外務大臣を務めたアバ・イバン氏で、ケンブリッジ大学卒の学者であった彼の語り口は、簡潔で分かりやすい英語でありながら、格調の高いものでした。

このシリーズは当時5千万人以上が観たとされ、エミー賞やピーボディ賞などを受けました。私自身も深く印象付けられ、コンパニオンブックとして出た同名の著書を買い、折に触れて読んだものです。

その後10年ほどしてロサンゼルスに引っ越し、その地のユダヤ人指導者の数人と親しくなりました。その中の一人で、日露戦争時、日本に資金援助をしたジェーコブ・シフなどが設立した歴史あるユダヤ人団体 American Jewish Committee の西部地区代表ニール・サンドバーグ博士と、このドキュメンタリーの話をしたことがあります。そしてサンドバーグ博士が、日本人のユダヤ人理解を助けたいと、このドキュメンタリーをNHKで放映して貰うためにずいぶん努力したが結局実現しなかったことを、知りました。反ユダヤ的本がベストセラーになり、ホロコースト否定の記事さえ出る日本でこそ、このドキュメンタリーが放映されて欲しいと思っていた私も、その話を聞いてがっかりしたことを覚えています。

それからさらに20年以上が過ぎ、 「Heritage: Civilization and the Jews」の幾つかの編は、Youtube で観られます。(以下は第1話)

 

つい最近では、サイモン・ウィーゼンタール・センターがユネスコと共同で制作したパネル展示「「民、聖書、その発祥の地:ユダヤ人と聖地の3500年にわたる繋がり 」が、東京で開かれました。着任したばかりのイスラエル大使ヤッファ・ベンアリ氏や松浦晃一郎 元ユネスコ事務局長、数人の国会議員も挨拶し、日本とイスラエルの間の理解を深めるこのような教育啓蒙活動の大切さを訴えました。

          
ヤッファ・ベンアリ大使      松浦氏・中山泰秀議員・クーパー師

特筆すべきは、この展示もPBS のドキュメンタリーも、イスラム教の誕生、それがやがて中東全域・北アフリカまで広まり豊かな文化を生み出したこと、その間ユダヤ人が身分は劣位であっても自らの宗教に従って生きることを許されていた歴史を、正確に伝えていることです。

一方、パレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長はつい先ごろ、中央委員会の演説で、「イスラエルは植民地プロジェクトであり、ユダヤ人とは何の関係もない」と宣言しました。それ以前にも、パレスチナは国連やユネスコに、ユダヤ人と聖地エルサレムの歴史的繋がりを否定し、イスラエル国家の正当性に挑戦する決議案を通させることに、成功しています。これらの決議案の幾つかに日本も賛成票を投じていることが、残念です。

パレスチナ側がイスラエル国家の存在を認めていないこと、ガザを統治するハマスがイスラエルの壊滅を目指す憲章を掲げていることも、日本ではあまり知られていません。

日本政府は最近、和平交渉の仲介役になる用意があることを表明しましたが、古代からの長い歴史と、イスラエル建国後の近代の歴史を正確に踏まえ、誠意ある建設的な役割を果たしてほしいと願います。

トランプ大統領のエルサレム首都宣言

トランプの大胆な行動が、パレスチナをついに交渉の席につかせるかも

エブラハム・クーパー (サイモン・ウィーゼンタール・センター副館長)

トランプ大統領はパレスチナ自治政府指導者に明確なメッセージを送りました。イスラエルとの和平交渉に取り組もうとも、お互いに妥協をしようともせず、アメリカを、巨額の援助金を引き出すためのATMとして扱うな、というものです。

トランプ大統領のこのメッセージは、明らかにパレスチナ指導者とその支持者たちを動揺させました。

しかし、もしかすると、トランプ大統領の大胆で通常とは違うこのメッセージが、ショック療法のように作用して、パレスチナとイスラエルが新たな交渉を始めるきっかけになるかもしれません。もちろん実際にそうなるかは予想もできませんが、もしそれが起これば、大統領の過去の政策からの決別は、永遠に停滞し続けるかとも見える“和平プロセス”の歴史的転換点として、記憶されるかもしれないのです。

米国務省によると、アメリカは1994年から国際開発支援として、パレスチナに52億ドル(約5880億円)以上を提供しており、2016年にも、290百万ドル(約330億円)を供与しました。

トランプ大統領は明らかに、聖地(エルサレム)における現状を受け入れるつもりはないようです。

アメリカはまた、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)にも何十億ドルもの拠出金を提供してきました。この機関は1949年から、中東の数か国に離散したパレスチナ“難民”を支援していますが、2016年だけでも、アメリカ国民の税金から355百万ドル(約400億円)が拠出されています。また、55百万ドル(約60億円)が治安維持の経費として、追加でパレスチナに提供されています。

“難民”という用語には、70年前にイスラエルが独立したとき、その地を離れた人々の子どもや孫やひ孫たちが含まれています。

トランプ大統領は火曜日、「私たちはパレスチナ人たちに毎年何十億ドルものお金を支払いながら、感謝も尊敬もされない。彼らは、とっくに成立しているべきイスラエルとの平和条約を交渉することさえ、望んでいないのだ。パレスチナ人が和平に取り組もうとしないのに、どうして私たちは彼らに大金を払い続けなければならないのか」とツイートしました。 “トランプ大統領のエルサレム首都宣言”の続きを読む

メラメド氏と表彰されました。

 

先日、80年代から90年代にかけて10年近く家族とともに住んでいたシカゴに、娘と旅しました。ユダヤ系人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センターがシカゴで開催したイベントで、「勇気のメダル」という賞を授与されたからです。



受賞挨拶、センター館長のマーヴィン・ハイヤー師と副館長のクーパー師と

当日のメインゲストで、センターの国際指導者賞を受けたのは、シカゴ・マーカンタイル取引所の名誉会長で、杉原ビザで救われたリオ・メラメド氏(85歳)でした。

このような形で彼と再会するとは、26年前彼に初めて会った時は想像さえしていませんでした。1991年の夏、日本のあるビジネス雑誌の依頼で、私は、彼にインタビューをすることになりましたが、先物取引のことなど全く分からないまま、何とかなるかと彼のオフィスを訪ねました。でもその出会いは、思いもかけない展開に繋がっていったのです。彼が杉原ビザで救われたことが分かったからです。当時は杉原千畝氏の人道的行為はまだあまり知られていなかったのですが、私はユダヤ人と結婚した友人から偶然聞いて知っていました。。

メラメド氏との出会いで、ユダヤ人の歴史、特にホロコーストに興味を掻き立てられた私は、その後ロサンゼルスに引っ越してから知り合ったサイモン・ウィーゼンタール・センター副館長エブラハム・クーパー師の励ましもあり、1997年にホロコーストに関するインタビュー集「忘れない勇気」を出版しました。メラメド氏にも改めてインタビューし、彼のストーリーもその本の一章となりました。

リオ・メラメド氏と

ホロコーストの教訓を伝える人々にインタビューする過程で友人となった数人から、「あなた自身の国の歴史に向き合うことも大切ですよ」と何度か言われました。そしてその言葉通り、その後私は、旧日本軍の捕虜だったアメリカ兵たちの問題に取り組むことになり、20年近い年月が過ぎていきました。40%が死亡するほどの過酷な扱いを受けた捕虜たちは、半世紀以上が過ぎても、日本政府からも、彼らに強制労働を課した日本企業からも、謝罪を受けていなかったのです。奪われた尊厳と正義を取り戻すための彼らの闘いは、やがて私自身のものとなっていきました。元捕虜と一緒に活動し始めてから日本政府の謝罪を得るのに10年、日本企業の一社から謝罪を得るのに15年の歳月が流れました。今はほとんどが故人となってしまいましたが、かけがえのない友人となった元捕虜たちとの思い出はつきません。

かくも長い間活動を続けられたのは、元捕虜たちからのあふれるような友情があったことはもちろんですが、どんな時も励まし続けてくれたクーパー師、そしてさらに遡れば、メラメド氏との出会いがあったからだと思います。彼は生きることの意味を(彼の場合はその命を杉原氏によって救われたのですが)、自伝の中に書いています。父親に、著名なイディシュ作家の公演会に連れていかれた10歳のメラメド少年は、「無限に生きる唯一の道は、有限を超越する何かのために生きることです。そしてその何かとは、“理想”です」という言葉に打たれました。メラメド氏は、その後の人生をその言葉を忘れずに生き、つい最近日本から旭日重光章を受けました。

私にとってシカゴは、二人の子供を育てながら勉強し、メラメド氏とも出会えた以外に、もう一つ特別な意味のある場所です。メラメド少年と彼の両親は1941年にシカゴに辿り着きましたが、その地から間もなくフィリピンに派兵される運命にあったユダヤ人の若者が、レスター・テニーでした。レスターの部隊がマニラに到着して数週間後、日米開戦となります。米比軍は、本国からの援軍がないまま圧倒的な日本軍に抵抗して戦いましたが、翌年4月9日バターン半島で、一か月後にはコレヒドール島で降伏、米国軍史上最多数の将兵が捕虜となりました。レスターは「バターン死の行進」を歩かされた後、日本に送られ、終戦まで大牟田市の三井三池炭鉱で強制労働に就かされたのです。

終戦翌年の1946年に結成された元日本軍捕虜米兵の会は、63年間活動を続け、2009年に解散しましたが、レスターはその最後の会長を務めました。私とレスターは、今年の2月に彼が96歳で逝去するまで18年間、一緒に活動を続けました。前半は、失望とフラストレーションの多い年月でしたが、後半は、日本との和解活動が始まり、充実した日々となりました。

米国 Fox News に掲載されたレスター・テニー氏との思い出を綴った記事

サイモン・ウィーゼンタール・センターは今回の表彰で、私が、ホロコーストとユダヤ人に関する理解を日本人に広める努力をしたことに加え、元捕虜と日本人の和解に貢献したことにも触れてくれました。レスターの生まれ故郷でメラメド氏とともにその賞を受けながら、彼が生きていたならどんなに喜んでくれただろうと、思わずにはいられませんでした。

(このエッセイは、拙著『旧アメリカ兵捕虜との和解』を出版してくださった彩流社のサイト「ほんのヒトコト」に掲載されたものです。)