Twenty Years of Budo for Peace

By Kinue Tokudome

Danny Hakim OAM is a man of action whose energy and passion have always impressed me since I became friends with him and have worked with him occasionally.

Danny recently let me know, with photos, that he was part of the Israeli delegation to the 14th SKIF World Karate Championships held in Hungary from August 23 to 27. (Danny is a Shotokan Karate 7-dan)

So, I took this opportunity to summarize his activities to date.

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Danny was born in Australia, spent his younger years studying karate in Japan, and now lives and works in Israel.

In 1983, Danny participated in the first SKIF World Championships at the Tokyo Yoyogi Olympic stadium as a member of the Australian team, winning a bronze medal in the team fighting event.

His encounter with his mentor, Soke  Hirokazu Kanazawa, the founder of SKIF ( Shotokan Karate International Federation) at that time, became a defining moment in his life, which took him on a 40-year trajectory to implement the lessons and values learned from his teacher and mentor to promote peace in the Middle East.


Soke  Hirokazu Kanazawa, Danny, Kancho Nobuaki Kanazawa

In November 2003, Danny presented the concept of Budo for Peace at the First International Symposium on Budo Culture conducted at the International Research Center for Japanese Studies in Kyoto and sponsored by Japan’s Ministry of Education.

In 2004, Danny established the non-profit organization Budo for Peace with a grant from the Japanese government called “Program to Promote Grassroots Peacebuilding Activities.”

In 2006, a joint Israeli/ Palestinian BFP youth team competed at the 6th SKIF world championships at Tokyo Yoyogi Olympic Stadium and performed a special peace kata at the opening ceremony.


Soke Kanazawa speaks about the BFP youth team’s performance in Tokyo in 2006 during the reception held at the Japanese Embassy in 2008

Over the span of 20 years, BFP taught thousands of Israeli and Palestinian youth the Budo values of tolerance, self-control, and self-development while promoting harmony between youth and their different communities.

These joint events and training camps were supported by many Japanese ambassadors.

In 2010, Soke and his son Nobuaki visited the first BFP’s  Bedouin Arab karate club known as “ Champions of the Desert.”

In 2016, Danny established the official Israel branch of “Kids Kicking Cancer,” training martial arts instructors from Karate, Judo, Aikido, Kung Fu, and Taekwondo, the Budo mental techniques to empower children with cancer to overcome their pain.

In 2018, BFP was honored by the Prince of Monaco’s Peace and Sport organization, winning the award of the best regional NGO of the year for their work with Syrian and Afghani refugees.

For the 2020 Tokyo Olympics, BFP had planned to perform a Peace Kata to show the world how Japanese Budo culture -one of Japan’s biggest cultural exports- can help bring peace in the world, even in conflict regions such as the Middle East. However, due to Corona, all performances were canceled.

With Olympic and Paralympic Games Minister Seiko Hashimoto

In 2019, BFP organized the first International Day of Sport and Peace in Israel, inviting 12 other Sports and Peace organizations to participate. They included soccer, basketball, tennis, catchball, karate, capoeira, frisbee, and kayaking.


Australian Ambassador to Israel at the International Day of Sport and Peace

The success of this event and the collaborations between these organizations developed into the creation of the Sport for Social Change Coalition, which now has 22 organizations with 50,000 youth athletes in 384 locations in Israel. The organizations focus on using sport to promote and support programs on Women empowerment, special needs, children at risk, shared society, and collaboration between member organizations to create a collective impact.

In January 2022, Danny was honored by the Australian government for his work in Sport and Peace and received the Order of Australia Medal for service to the international community.

More on Danny’s receiving the Order of Australia Medal 

In his acceptance speech, Danny acknowledged Soke Kanazawa as his work’s inspiration and spiritual guide. Soke passed away in December 2019.

At the recent 14th SKIF World Karate Championships, attended by 50 counties and over 1000 athletes, a memorial video was shown honoring the life and legacy of Soke.

Soke’s son, Kancho Nobuaki Kanazawa – a former karate world champion- has taken over the leadership of SKIF (which numbers over 3 million practitioners ) and will be continuing the legacy of his father, spreading the values of Budo to the world.


With Kancho Nobuaki Kanazawa and Mrs. Kanazawa

ワレンバーグに導かれたラピド氏との面会

徳留絹枝

第二次世界大戦末期のブタペストで10万人ものユダヤ人をホロコーストから救いながら、自分はソ連の牢獄で死んだラウル・ワレンバーグのことを初めて知ったのはいつ頃だったか、正確には思い出せません。リチャード・チェンバレンが演じた1985年のTVドラマを見て、このスウェーデン人外交官のことを知ったのか、あるいはもっと前にニュースなどで聞いていたのかもしれません。

しかし、彼の勇気と彼自身を襲った悲劇に心を動かされた記憶はありますが、その後自分にとってどれほど深い意味を持つ人物になるか、当時は想像もしていませんでした。

1991年、私は当時住んでいたシカゴで偶然にも、杉原千畝氏のビザで救われたリオ・メラメド氏と出会います。彼は、金融先物取引の父と呼ばれ、シカゴ・マーカンタイル取引所の会長を長く務めた人物でした。彼が書いた杉原未亡人への感謝の手紙を送付するお手伝いをするなど、はるか昔に遠い地で起こったホロコーストの歴史を身近に感じた最初の出来事でした。

25年ぶりに再会したメラメド氏と

その後ロサンゼルスに引っ越して数年後、日本を代表する出版社の雑誌にホロコーストを否定する記事が掲載されたことを知りました。何か自分にできることはないかと考え、当時地域のボランティアに打ち込んでいた私は、ロサンゼルス地区に住む日本人のために、ホロコーストの歴史を伝える「寛容の博物館」見学を計画しました。数十人が参加し、その時歓迎の挨拶をしてくれたのが、「寛容の博物館」を運営するサイモン・ウィーゼンタール・センター副所長のエブラハム・クーパー師(ラビ)でした。私にとっては、それが彼との長い友情の始まりでした。

その後クーパー師の励ましもあり、私は、ホロコースト生還者・歴史家・活動家などへのインタビューをまとめた本『忘れない勇気」を1997年(英語版は1999年) に出版しました。ウイーンまで会いに行ったサイモン・ウィーゼンタール氏、インタビューをしたのが縁でその後彼の回想録を訳すことになった歴史家ラウル・ヒルバーグ氏など、一人一人との出会いが思い出深い体験でした。特にラウル・ワレンバーグに救われた米国下院議員トム・ラントス夫妻と知り合えたことは、大変な名誉でした。

ラントス議員は1981年、下院議員の最初の仕事として、ワレンバーグを米国名誉市民にするために尽力しました。当時は、ワレンバーグがソ連の牢獄でまだ生きているのでないかという希望もあったのです。署名式には、レーガン大統領とラントス夫妻の他に、ワレンバーグの異父弟妹、そしてワレンバーグの行方を自ら追っていたサイモン・ウィーゼンタール氏も参列しました。


President Reagan’s Remarks Proclaiming Honorary Citizenship for Raoul Wallenberg on October 5, 1981
(Courtesy Ronald Reagan Presidential Library)

名も無いフリーランス作家の私を、ラントス夫妻は心にかけて下さり、拙著に推薦文を書いてくれたり、当時大学生だった私の娘をワシントンの事務所のサマーインターンにしてくれたりしました。

2002年、クーパー師と私は、日本語と英語でワレンバーグのユダヤ人救出を描いた絵本『いのちのパスポート』を出版しました。ラントス夫妻が前書きを書いて下さり、私のシカゴの友人宮尾三枝子さんが美しい挿絵を描いてくれました。

 

ホロコーストは私がそれほど打ち込んでいたテーマでしたが、私はその後16年あまり、太平洋戦争中に旧日本軍の捕虜だった米国の退役軍人たちと活動することになります。ホロコーストを語るには、自分の国の歴史にも向き合うべきだと考えたことが発端でしたが、結果的には80代・90代の元捕虜たちと長い年月共に活動し、かけがえのない数多くの思い出を作ることができました。

戦時中の過酷な取り扱いに関し、元捕虜が求めた日本政府と日本企業からの謝罪(正式なものは一社だけでしたが)は、長くかかりましたが何とか得られ、元捕虜たちは、ひとりひとり亡くなっていきました。私自身も、彼らとの活動と友情の記録をまとめた著書を2017年に出版し、一つの時代が終わったのだという寂しさにしばらく襲われたものです。

そして私は再び、ユダヤ人の問題に目を向けました。私の関心がイスラエルに向くまで忍耐強く待ってくれていたクーパー師は、2016年の私のイスラエル初訪問を全て計画してくれました。学ぶことは山のようにあり、その後コロナを挟みながらも、私のイスラエルへの旅は7回に及びました。コロナで行けなかった2年半の間には、エルサレムの著名な障がい者支援施設「シャルヴァ」の設立者カルマン・サミュエルズ師の回想録を日本語に訳しました。

そして2023年3月のイスラエル訪問で、遠い昔に初めて彼のことを知って以来、多くの人々との出会いと友情を生み出してくれたワレンバーグが、再び貴重な出会いの場を作ってくれました。父親と祖母をワレンバーグに救われたイスラエル前首相のヤイル・ラピド氏とお会いできたのです。私の娘も一緒でした。

私がラピド氏に会いたいと思ったのは、彼が、著名なジャーナリストだった父親トミー・ラピド氏の死後、父親になりすまして書いた回想録『Memories After My Death: The Stories of My Father Joseph “Tommy” Lapid』  を読んだ時です。その中に、1944年秋、ブタペストでユダヤ人救出活動を続けていたワレンバーグに、母親(ラピド氏の祖母)が救われる箇所が出てきます。

1944年10月、アイヒマンはブタペストにまだ残るユダヤ人たちを、絶滅収容所に送り始めました。トミー少年が12歳半だった時、彼の母親は収容所への移送車が待つ国境までの行進に駆り立てられます。しかしその時奇跡が起こります。

夕暮れ時になって突然、母が帰ってきて言いました。「彼が私たちを救ってくれたの」母はその 「彼 」が誰であるかは言わなかったし、言う必要もありませんでした。その時、ブダペストにはただ一人の「彼」しかいなかったからです。ラウル・ワレンバーグです。

ワレンバーグは、外交官ナンバープレートをつけた大きな黒い車に乗って、突然現れました。車から出てきて、行進を先導するナチスの大佐に「私はスウェーデン大使だ。私の保護パスポートを持った女性が何人かいる。彼女たちをすぐ解放することを要求する」と告げたのです

この箇所を読んだ時、私は、クーパー師と書いたワレンバーグの絵本をラピド氏に贈呈することを、決心しました。その絵本の中に、まさにその行進の様子を描いたページがあったからです。

またラピド氏の父親が、少年時代同じようにブタペストでワレンバーグに救われたラントス議員と親友であることも書かれていました。

一緒にこの絵本を書いたクーパー師に、2人揃ってイスラエルに行く時に贈呈すべきか尋ねると、もし一緒に行けなくても、機会を逃さず進めるべきだと言ってもらえました。

面会の実現を助けてくれたのは、30年近く日本経済新聞のためにエルサレムから働いたエリ・ガーショウィッツ氏でした。彼とは2度目のイスラエル訪問で偶然知り合い、その後は毎週のようにイスラエルの政治状況を伝えてくれる友人になっていたのです。

私は、長いジャーナリスト生活でイスラエル政界に多くの友人や知己を持つエリに、ワレンバーグの絵本の表紙とラントス夫妻の前書きの写真、そして私自身の経歴を添えて、面会の可能性を探ってほしいと頼みました。しかしその後イスラエルでは、ネタニヤフ政権が進める司法制度改革を巡って国を二分する大論争が起こり、反対派の急先鋒に立つラピド氏は、おそらくイスラエルで最も多忙な人物の1人になってしまったのです。

ラピド氏と会えるかどうか分からないまま、娘と私はイタリアに向け旅立ちました。イスラエルには、その後に立ち寄ることになっていました。

エリが、ラピド氏と5分間だけ会えることになったと知らせてきたのは、ローマからイスラエルに向けて発つ前日のことでした。

実際にお会いしたラピド氏は、その直前にも直後にも目まぐるしいスケジュールが詰まっていたに違いありませんが、リラックスしたムードで、私と娘を暖かく迎えて下さいました。ワレンバーグの絵本を手に取り、何度も頷かれながら私の説明を聞いてくれました。

たった5分ということで、話せることは限られていましたので、私はラントス議員夫妻が前書きの中でお孫さんたちに語りかけた「君たちはワレンバーグの孫でもあるんだよ」という言葉を、お見せしました。そして、お忙しい中時間を取ってくださったことに感謝しますと伝えると、ラピド氏は、「いえいえ、あなたが持ってきてくれたメッセージは普遍的なものです。有難う」と答えて下さいました。

ラピド氏は、「日本にもユダヤ人を救ってくれた外交官がいましたね」と杉原千畝氏のことにも触れてくれました。

最後にエリが、ラピド氏との面会前に私たちが訪問していた「シャルヴァ」のカルマン・サミュエルズ師からのメッセージを、ラピド氏に見せました。障がいを持つ娘さんの父親であるラピド氏は、「シャルヴァ」の支援者でもあるのです。

エリは後日、面会までの裏話と感想を送ってくれました。

面会を実現するのが難しかった理由は、ラピド氏が連立政権の進める司法改革に反対する最前線にいたためです。反対していたのは彼一人ではありませんが、彼の役割は象徴的でした。彼の1時間1時間が貴重なため、とにかく依頼するタイミングが重要だと感じました。現在進行形で進む「国家的状況」を見守る中、時間がどんどん過ぎていきました。 あなたがイスラエルに到着する48時間前になったとき、僕は、面会依頼を伝える絶対的締め切りのぎりぎりにいることを悟りました。

私は、ラピド氏の広報官として10年以上働いてきた人物に頼むことにしました。(彼は私の日経時代の知り合い)WhatsAppであなたの経歴を含む依頼を送ると、彼はそれを担当者に伝え、推薦してくれました。当日あなたが会った Cheli さんはラピド氏のアシスタントで、連絡係として面会をコーディネートしてくれました。

この面会がうまくいったと僕が思う理由は、(1)ラピド氏が純粋に興味を持ってくれ、なぜ私たちが面会を依頼したか分かってくれたようだったこと、(2)超過密に違いないスケジュールの中で、面会が10分間も続いたこと、です。また、ラピド氏にとっては、素晴らしい気分転換になったのではないかと思います。

あっという間の面会でしたが、ワレンバーグが繋いでくれる人の輪がまた一つ広がったと感じたひとときでした。

ホロコースト時に危険を顧みずユダヤ人を救った多くの非ユダヤ人(Righteous gentile )に共通する価値観―命の大切さーを最も劇的に示して消えていったワレンバーグの物語が、これからも語り継がれることを願っています。

シオニストが日本から送るメッセージ

ダニー・ハキム

ーー私は40年間イスラエルと日本の間を行き交う中で、私たちのコミュニティ精神が今でも海外の人々を元気づけることを、発見しました。でも、今のイスラエルではどうでしょう?ーー

2023年3月3日は、イスラエルと日本にとって歴史的な日でした。テルアビブからEL ALの初の直行便が東京に降り立ったのです。私はその便に乗り、4日後には、初の東京発直行便でイスラエルに帰ってくるという特権に恵まれました。

故郷のシドニーから初めて日本を訪れて以来、私は40年もの間、この便のウェイティングリストに載っていたと言えるかもしれません。

人生を変えた1983年の旅
1983年のたった一回の日本への旅が、その後40年にわたる私の人生の方向を変えました。私は24歳で、誠実なイスラエル人女性を見つけ、イスラエルで自分の人生をスタートさせたいと思い、ユダヤ人の故国イスラエルへ向かう途中でした。

8歳の時にオーストラリアのシドニーでベタール青年運動に参加した私にとって、その後の人生が、私が師と仰ぐ故ゼブ・ヤボティンスキーの教えに従ったものとなることは明確でした。

しかし、この日本への寄り道が、単なる寄り道ではなくなってしまったのです。空手の黒帯に合格し、オーストラリア代表として空手世界選手権に出場することが決まってからの6年間、私は精神的な準備と肉体的なトレーニングを積み重ねてきました。

私の目標と予定ははっきりしていました。空手の大会に3日間参加し、日本で5日間観光した後、ロンドンに移動し、EL ALの最初の便でテルアビブに向かうというものでした。しかし、諺にもあるように、 一寸先のことは分からなかったのです。

3日間の空手大会の他は、何一つ私の計画通りには進みませんでした。その結果、私の日本への生涯の愛着が生まれ、私のその後の人生の10年間が思いもよらない形で幕を開けたのです。私は日本に留まり、ジャボティンスキーと同じほど尊敬できる日本の師匠のもとで、空手と合気道の修行をし、自分自身と他者との平和を実現する内なる力を得るため、日々厳しい心身の鍛錬に取り組むことを決意しました。

日本に住むようになった私は、イスラエルへの観光を推進しようと思い立ちましたが、テロが続き、直行便がなかったこともあり、簡単にはいきませんでした。またほとんどの日本人はイスラエルについてあまり知らず、あるのは、イランやイラクと同じように「I」で始まる国、砂漠の中にある国、ニュースで戦争の映像が流れる国というイメージでした。

キブツを宣伝して認識を変える
私は、イスラエルのイメージをテロリストの地から観光地へと変えようと決意し、勇気と反骨精神を持つ日本の若者に、イスラエルのキブツ(農業共同体)でのボランティア活動をアピールすることにしました。この教育的ワーキングホリデーは、安全な環境で、オレンジ畑の中でのびのびと過ごし、ヨーロッパ人と出会い英語を学ぶ機会を与え、新しく異なる世界を見ることを可能にするはずでした。

素朴なマーケティング計画
私の日本でのマーケティング計画は、それほど洗練されたものではありませんでした。イスラエルの若い開拓者たちが果物を摘み、フォークダンスを踊っているパンフレットを手に、私は原宿公園(東京の若いパンクダンサーたちがよく集まる場所)にブースを構えました。最大ボリュームのロックンロールを流すブースが並ぶ中、私は無邪気にスピーカーを設置し、「マイムマイム」という曲を流したのです。

驚いたことに、数分後には、あらゆる年齢の日本人が集まってきて手をつなぎ、この古典的なイスラエル民謡に合わせて踊り、歌いだしたではありませんか。日本人は、普通手をつないだり触れ合ったりすることはないので、これは驚きでした。しかし、私の目の前で、老若男女の日本人が「マイムマイム」の歌詞を歌いながら、そのステップで踊っていたのです。しかし彼らは、それがヘブライ語であることも、イスラエルの踊りであることも知りませんでした。そのことだけは彼らに伝わっていなかったようでした。

日本における「マイム・マイム」現象
もともとイスラエルの民族舞踊「マイムマイム」は、開拓者社会が繁栄し、共に国土を築くことを祝うために生まれたもので、新しい国家の建設という共同作業の中で、人々を結びつけ、希望を与え、一体感や共同体の願望をたっぷり表現するために作られました。手をつなぎ、希望に満ちた気持ちで一緒に歌うことは、平等と連帯という新しいシオニズムのイデオロギーを象徴していました。それは、互いに触れ合い、互いを意識して、一緒に動くことを必要としていたのです。

1950年代から、アメリカ連合国軍は日本の教育にフォークダンスを導入し、ほとんどの日本人が体育授業の一環としてフォークダンスを踊るようになりました。1958年、アメリカのダンスのパイオニア、リック・ホールデンがイスラエルで学んだ「マイムマイム」を日本の小学校に紹介し、それは一気に浸透していきました。

以来、「マイムマイム」はテレビ番組やアニメ、映画で取り上げられ、現在でも日本の学校で教えられています。

そしてそれから40年、私は2回目の直行便で、イスラエルのオリンピック・マラソン選手ビーティー・ドゥイッチさんと一緒に東京にやってきました。彼女が走り終わった後、皇居外苑で私が喜びのフォーク・フラッシュダンス「マイムマイム」を踊り出すと、何十人どころか、何百人もの日本人が私と一緒に踊ってくれたのです。

「マイムマイム」 は日本への最もクールな輸出品
イスラエルの日本への最も影響力ある輸出品のひとつが、フォークダンスに象徴されるコミュニティ・スピリットだったとは、誰が想像できたでしょう?

危機に瀕する国家
悲しいことに現在のイスラエルは、世界に対して正反対の文化と顔を見せています。互いに歩調を合わせ、一致団結して歌う国ではなく、今、私たちは歴史上最大の政治的衝突に直面しています。昔のような調和、一体感はどこにいったのでしょう。 すべてのユダヤ人は王子であり、寛容で公正な人間でなければならないと語ったジャボティンスキーの広い心はどこにいったのでしょう。アルタレナの後、怒りを克服して内戦を回避したメナハム・ベギンが大切にしたユダヤ人の団結の大切さはどこにいったのでしょう。私たちが共有するトーラーが教える開拓者精神、起業家精神、寛容の宗教精神はどこにいってしまったのでしょう。

40年間イスラエルと日本の間を行き交い、この瞬間を夢見てきた私は、日本のような国で、私たちのコミュニティ精神の本質を感じることができることに感動します。このような瞬間こそが、私の理想主義を支えてくれているのです。25年前、安全で民主的なオーストラリアから、ユダヤ人で民主的な国という歴史的なシオニストのプロジェクトに参加するため、私をイスラエルに向かわせたのも同じ理想主義でした。

今日、ヘルツォグ大統領と将来の国の地位について交渉しているリーダーたちが、共にイスラエル建国の父と母の精神を振り返り、異なる信念を持つ人々が手をつなぎ、輪になって一緒に「マイムマイム」を歌い踊ることを恐れなかった日々を思い出すことを、私は願い祈ります。

統一と平和への希望
過越祭、ラマダン、復活祭を祝うとき、汝の隣人を汝自身のように愛することの大切さと、平和、自由、そして他人への尊敬(神は私たち全員をご自分のかたちに創造されたのですから)という普遍的なメッセージに、私たちが気づかされますように。

ABOUT THE AUTHOR

Danny Hakim OAM is a 2 times world karate silver medalist and holds a 7th-degree black belt from Japan. He is the founder of Budo for Peace and chairman of Sport for Social Change. He is a board member of The Azrieli Foundation, MWU (Maccabi World Union), ALLMEP (the Alliance of Middle East Peace), and Kids Kicking Cancer. In 2017 he was inducted into the Australian Maccabi Hall of Fame, and in 2019 was the recipient of the Bonei Zion Award for Culture, Art, and Sport. In January 2022, he was awarded the Order of Australia Medal for service to the international community.

オリジナルは The Times of Israel に4月5日掲載

 

日本・イスラエル国交樹立70周年: 真の同盟へのロードマップ

エブラハム・クーパー
徳留絹枝

今年は、日本とイスラエルが国交を樹立してから70年という大きな節目の年です。この間、両国ともに、第二次世界大戦後の混乱した時代から大きな飛躍を遂げました。21世紀の今日、両国はどちらも最先端技術を持つ民主主義国です。

日本とユダヤ人の間の理解と友情を深めるために何十年も活動してきた私たちは、この記念すべき年を大きな期待を持って迎えました。

私たちの一人は1980年代から、日本の人々に、ホロコーストやユダヤ人の歴史そしてイスラエルへの関心と知識を深めてもらうために活動してきました。他の一人はこの25年間、日本人読者向けにホロコーストやユダヤ人に関する本や記事を執筆し、翻訳してきました。

私たちは何度も日本を訪れ、日本の政府関係者に会い、駐日米国大使・駐日イスラエル大使と面会し、報道関係者と話し合って来ました。

最近私たちは、興味深い記事を読みました。Thinking Bigger: Reimagined Alliances for the U.S. and Japan  それは、日本とイスラエルが、米国も含んだ強力な同盟関係を構築することを提案する内容でした。これは両国が追求するに値する素晴らしいビジョンです。しかし私たちは、日本がその前に、日本とイスラエルの関係強化を願う人々を深く失望させてきた、対イスラエル政策を見直す必要があると考えます。

新しい同盟を阻む障がい

私たちは数か月前、反イスラエルのダーバン会議(国連人種差別撤廃世界会議)20周年記念行事を日本がボイコットすることを求める意見記事を書きました。残念なことに日本は、この憎悪に満ちた反ユダヤ主義会議をボイコットした37ヵ国(日本以外のG7メンバー全てを含む)に加わることなく、出席することを選びました。

そして日本が12月1日国連総会で、ソロモン王の神殿があった神殿の丘をイスラム名でのみ表記した決議に賛成したことに、私たちは衝撃を受けました。米国を含む民主主義諸国は、国連が今後イスラエル・パレスチナ紛争解決にポジティブな役割を果たすための信頼を失墜させるようなこの決議を、拒否しました。また、多くのイスラエル人にとって、誇り高き古代民族・文化国家の日本が、自らの過去は熱心に崇め守りながら、ユダヤ人がその3500年の歴史を守り祝う権利を冷淡に否定したことは、信じ難いことでした。

日本が、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の問題に沈黙していることも、もう一つの懸念です。日本以外の援助国や多くの団体は、UNRWAの腐敗や憎悪教育を批判する声を上げてきています。

日本政府はさらに、パレスチナ自治政府に直接援助もしていますが、イスラエル人をテロ攻撃で襲ったパレスチナ人や死亡したテロリストの家族に自治政府が月給を払うMartyrs Fund(殉教者基金)を公式に非難したことはありません。米国は、“殺せば払う”と呼ばれるこの制度が廃止されない限り、パレスチナ自治政府への経済援助はしないという法律さえ成立させています。

そしてハマスなどのテロ組織が、イスラエルの壊滅を公然と目指すイラン政権から支援を受けていることはよく知られています。それでも、日本はそのイランと“歴史的な友好的関係”を維持してきています。

最後に、日本の政界や社会では、ナチスやナチスのシンボルへの不適当な言及や、現代のファシストやナチスに傾倒しているとさえ思われる、衝撃的な無知を露呈する事件が絶えません。そのような事件は、昨年の東京オリンピック開幕式を台なしにしそうになり、何人かの日本の政治家の評判を傷つけることになりました。

パートナーシップの機会

しかし良いニュースもあります。日本企業とイスラエル企業間のジョイントベンチャー数は、過去最高を記録しています。イスラエルはもはや日本にとって、はるか遠い見知らぬ国ではなく、経済分野での真のパートナーになりました。民主主義の価値観と技術主導の経済を共有する両国が強い同盟を結ぶことで、或いはそれに米国を含めることで、得られるものは計り知れません。

しかし、日本が真摯にそのような同盟関係を構築したいと願うなら、日本政府は、日本が本当にイスラエル・米国と価値を共有していることを、示さなければならないと思います。そうでなければ、日本は経済的な恩恵が欲しいだけで、政治的にはイスラエルの存在を直接脅かすような行動を続けていると見えてしまうでしょう。

同盟は信頼の上に築かれるものです。

真の同盟に向けたロードマップ

真の同盟関係を築こうとするなら、日本は以下のような行動を自発的に取り、反イスラエルの姿勢を改めることが必要です。

先ず日本は、国連で長年取ってきた時代遅れの立場を変えなければなりません。国連機関、特に人権理事会(UNHRC)が、イスラエルを繰り返し攻撃していることは誰でも知っています。でも日本のような影響力のある国が、他の民主主義国に加わり「ノー」と投票すれば、反ユダヤ主義とも言える国連の暴挙もいずれ制止させることができるでしょう。(注:国連総会は2021年度20本余りの非難決議を採択したがそのうち14本はイスラエル対象)

第二に日本は、UNRWAへの主要寄付国という立場を生かし、発言すべきです。財政不正行為やパレスチナの子どもたちへの反平和教育など、全ての領域で顕著な改革と透明性を求めるのです。

第三に、もし日本が米国・イスラエルと価値観を共有していると言うのなら、日本はパレスチナ自治政府を援助するにあたり、イスラエルへのテロ行為を奨励している殉教者基金の廃止を条件にするべきです。

第四に、日本政府は、遅ればせながら国際ホロコースト記憶連盟(IHRA)の反ユダヤ主義定義を採択し、そこに示された例を参考にして反ユダヤ主義と取り組むべきです。世界各地で反ユダヤ主義的事件が多発する中、IHRAの定義は、昨年8月にアジア国として初めて採択した韓国を含む主要民主主義国によって採択されてきています。

ここで提案したこれらの行動は、日本とイスラエル間の堅固な同盟関係に確実な基盤を作ることでしょう。

最後に両政府は、アブラハム合意をアラブ・イスラム世界とさらに広範な地域に拡大させるため、緊密に協力し合うことができると私たちは考えます。そのような努力は、イスラエルとオーストラリアの伝統的友好関係や、近年深まるイスラエルとインドの関係を考えると、「自由で開かれたインド太平洋」という日本の最重要外交政策をも前進させることができるはずです。

2022年新しい同盟に向けて

国交樹立70周年の節目が、両国民の友好関係を新たなレベルに持ち上げることを、私たちの英雄である故杉原千畝氏も喜んでくれるでしょう。彼は、ユダヤ人が最も困難な状況にあったホロコースト時、傍観することなく、何千人ものユダヤ人を確実な死から救いました。

上記のロードマップに沿って行動することで日本が得ることは大きいと、私たちは信じます。日本は、日本・イスラエル・米国の間に新しく躍動的な同盟を構築する機会に恵まれているのです。そうすることで、日本は他の多くの民主主義国と協調するだけでなく、同様の価値観を共有する古くて新しい国イスラエルと手を携え、自らの政治とビジネスの目標達成を目指すことができます。これらの有力な民主主義国が作り出す新しい同盟関係は、私たちと世界に希望に満ちた新時代を約束することでしょう。

エブラハム・クーパー
ユダヤ系人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルス)の副所長。 Global Social Action ディレクター。1980年代から頻繁に日本を訪問。2022年6月 The United States Commission on International Religious Freedom のコミッショナーに任命される。
ツイッター:@simonwiesenthal

徳留絹枝(とくどめ・きぬえ)
作家・翻訳家。著書に『忘れない勇気』『記憶-ホロコーストの真実を求めて』『旧アメリカ兵捕虜との和解:もうひとつの日米戦史』『障がい児と家族に自由を ―イスラエルの支援施設シャルヴァの夢』など。
ツイッター:@JewsandJapan

 

*この記事のオリジナルは2021年12月20日 The Mainichi に掲載され、その後 Jewish News Syndicate, Algemeiner, Mosaic などのユダヤ系メディアに転載されました。

ゴラン高原への旅: IDF「良き隣人作戦」

5月初め、2年8か月ぶりでイスラエルに旅行しました。私が昨年翻訳した『障がい児と家族に自由を ―イスラエルの支援施設シャルヴァの夢』の著者カルマン・サミュエルズ師とご子息のヨシさんに会えたことや、若い頃日本で空手を学んだダニー・ハキム氏と一緒に大統領夫人に会ったことなど、滞在中の思い出についてはウェブマガジン『ISRAERU』に書かせて頂きました。

今回のイスラエル旅行のもう一つの目的は、ゴラン高原にエイアル・ドロア中佐を訪ねることでした。ドロア中佐は数年前まで、イスラエル国防軍(IDF)のシリア人支援「良き隣人作戦」を指揮した人物で、現在は退役し、このIDF史上最大規模の人道支援作戦について語り継ぐ活動をしています。2年前、私が住む南カリフォルニアの町の大学で彼が講演した時に知り合い、その後折に触れてメールやズームで語り合って来たのですが、今回作戦が行われた場所を彼が案内してくれることになったのです。二人の友人(日経新聞エルサレム支局で長く働いたエリ・ガーショウイッツ氏とダニー)と一緒に、早朝からゴラン高原に向かいました。

途中、エリのお嬢さんが兵役を務めている基地に立ち寄り、彼女の話を聞きました。英語が堪能な彼女は、高校卒業の資格を持たないIDF兵士向けの授業を教えているとのことで、そのプログラムは、それらの若者たちが兵役を終えた後は高校卒業の資格を持って社会に出ていけるよう、IDFが提供しているのだそうです。そしてそれを受ける期間も兵役年数に組み込まれるそうで、感心しました。それにしても、お嬢さんの軍服姿を見つめるエリの誇らしげな、そして面会時間の終了が近づき彼女を何度も抱きしめる様子に、兵役中の子供を持つイスラエルの父親の思いを垣間見る思いでした。

ゴラン高原はイスラエル北東部シリアとの国境沿いにあり、1967年の六日戦争でイスラエルが占領し、その後1981年からイスラエルの行政と法律が適用されています。国連はこの併合を違法としてきましたが、2019年トランプ政権がゴラン高原におけるイスラエルの主権を認め、バイデン政権も、シリア国内のイラン武装勢力の脅威などを考慮し、それを翻していません。(日本ではあまり論じられませんが、六日戦争がエジプト・シリア・ヨルダンなどによるイスラエル攻撃寸前に起こされた自衛的戦争であったこと、長年併合を違法としてきた国連が極端な反イスラエルであることなども考慮されるべきです。米国が主権を認めた背景には、これらの理由もあったのではないかと思います。)

「良き隣人作戦」は計画的に実行されたものではありませんでした。それは2013 年の冬の夜、内戦で傷ついたシリア市民がイスラエル国境に近づいてきた時、現場にいたイスラエル部隊が人道的見地から地域の病院に運び、治療を施したことに端を発しています。(病院側の対応に関しては「敵国人に医療を施したイスラエルの病院を訪ねて」に書きました。)

幼い時からイスラエルを悪魔のような国と教えられて育った人々が、その国に救いを求めてくるほど、シリア市民は内戦で絶望的な状況に追い込まれていたのです。そしてその後、人づてに聞いた多くのシリア人がやってくるようになりました。当初は秘密裏に行われていた活動でしたが、イスラエル国防軍の上層部が本格的な支援作戦として部隊を編成することになりました。

そしてその指揮官に抜擢されたのが、西岸やガザでイスラエル国防軍とパレスチナ側との連絡調整を担うCoordination of Government Activities in the Territories (COGAT) で長年勤務してきたドロア中佐でした。父親や伯父などが職業軍人の家系に生まれた彼は、高校の頃からアラビア語を学び、COGOTでの任務で多くのパレスチナ人同僚と仕事をしたことから、アラビア語が堪能です。そのこともおそらく抜擢の理由の一つだったのでしょう。そしてドロア中佐にとって「良き隣人作戦」を指揮したことは、彼の人生を変える出来事だったと言います。

作戦は人道的目的だけでなく、国境沿いのシリア人の敵対心を緩和するという戦略的目的もありました。しかし、凍り付くような夜に親に連れられて裸足で国境に近づいて来る子供たちを見た時、自分にも3人の子供がいるドロア中佐は、胸が張り裂けそうだったと言います。そして最初は笑うことのなかった子供たちが、イスラエルの病院で治療を受け、おもちゃを貰い、やがて笑顔を見せるようになっていくことが、何より嬉しかったそうです。しかし、10歳位の男の子に「大きくなったら何になりたい?」と聞いた時、「僕は大きくならない。その前にきっと死ぬ。」という答が返ってきたことに衝撃を受けたこともありました。ドロア中佐は、数か月かの治療を必要とした女の子がそれを終えて帰国する時、感謝を込めて描いてくれたイスラエル国旗を今でも大切にしていて、講演の度にそれを見せます。私も彼に初めて会った時、見せて貰いました。

2016年に始まった「良き隣人作戦」は、アサド政権がシリア南部を再制圧する2018年まで続けられました。その間国際NGOの協力も得て、1,400人の子供を含む4,500人のシリア市民に治療を提供。また国境のシリア側に産院を設置し、そこで約1,000人の子供が生まれたそうです。支援は医療だけにとどまらず、食糧や燃料や衣類などの生活物資も700回に渡る搬送でシリア側に届けられました。やがて作戦は広く知られるようになります。当時シリア内にいたISIS やアルカイダなどの要員が市民になりすまし、国境で作戦に携わるイスラエル兵士を襲う可能性も常にあったそうです。そのような状況下で緊張感を持って遂行された作戦を、最後まで一人の死亡者も出さずに終えたことを誇りに思うと、ドロア中佐は語ってくれました。また、彼が指揮して助けたシリアの子供たちは決してそのことを忘れないだろうと、信じているそうです。

ドロア中佐が「良き隣人作戦」について語り継ぐ活動をするようになってから、さまざまなグループが、ゴラン高原に彼の説明を聞きに来るようになりました。イスラエル国防軍の若い将兵たちはもちろん、アブラハム合意が結ばれてからは湾岸国の関係者も訪れたそうです。アラブ首長国連邦から来たグループは、ドロア中佐の説明を聞き涙を流したということですが、彼らがその後、その体験をアラビア語のソーシャルメディアで伝えたことの影響は計り知れません。またハーバード大学ビジネススクールの学生達も話を聞きに来たそうで、この作戦が、長期的目的を持つことの重要さ・現実に沿った遂行・指揮官の指導力など、多くの教訓を学べるケーススタディになっていることを知りました。

イスラエル国内や海外のメディアでも数多く報道され広く知られるようになった「良き隣人作戦」ですが、ドロア中佐によれば、日本のメディアからの取材は一度も受けたことがないそうです。イスラエルから日本に伝えられるニュースはポジティブなものが少ないので、このようなエピソードこそ報道して欲しいのに、残念です。

24年間勤務したイスラエル国防軍から2019年に引退したドロア中佐は、その後の時間を家族と過ごすこと・博士号を取ること・「良き隣人作戦」に関する本を書くことに費やしてきたそうです。私たちを案内してくれた日、国防軍との共同出版が決まったという連絡が入り、一緒に喜びを分かち合うことができました。英語版も考えているということで、将来は日本語版も出て、この稀有な作戦が多くの日本人に知られることを期待したいと思います。

シリア側を見渡せるゴラン高原のベンタル山で