2015年4月18日付『エルサレム・ポスト』に掲載された徳留絹枝の記事「Promise fulfilled: Israel medical team in Japan」の日本語訳
1960年代、23歳の佐藤勇は何としてもイスラエルのキブツに留まりたかった。彼は、共産主義国家ではなく民主主義国家の下での共同生活に深い興味を覚え、それに参加してみようとはるばる日本からやってきたのだ。キブツの中のアジア・アフリカ研究所で学びたかったが、彼の語学は、ヘブライ語どころか英語もおぼつかなかった。佐藤青年は、大きすぎた夢を諦めて日本に帰ったらどうか、と丁重に告げられた。しかし彼は必至に訴えた。「約束します。僕は将来政治家になって、必ずイスラエルと日本の友好親善に尽くします。だから僕をここに置いて下さい。」
その願いが叶い、彼はその後の6か月をイスラエルで過ごし、日本から遠く離れたこの新しい国への生涯変わらぬ愛着を育むことになる。
それから歳月は流れ2011年、彼は日本北部にある宮城県栗原市の市長となっていた。今や60代後半の熟年となり、その頃までには政界における数多くの顕著なキャリア— 著名な国会議員の秘書、宮城県の県議会議員、そしてその議長など— を積み上げていた。長年築いてきたイスラエルの人々との友好も続いていた。主に稲作に従事する人口7万ののどかな市の市長として、佐藤氏の毎日は大きな事件もなく穏やかに過ぎていくかに見えた。
2011年3月11日、激しい地震と巨大な津波が東北日本を襲った。宮城県の沿岸地域は壊滅的被害を受け、何千人もの命が失われた。その後数週間にわたって起こったことは、何十年も前のイスラエルのキブツで夢を抱いていた佐藤青年でさえ、夢にも想像できなかった展開だった。
数日もしないうちに、ビジネスや高官との交友でイスラエルと深い関係を持つ友人の門傳章弘氏から、電話がかかってきた。門傳氏は、イスラエル政府がイスラエル国防軍の医療チームを救援のために日本に送りたいと申し出ていること、そしてベンシリット駐日大使が、受け入れ先を探してくれないかと門傳氏に電話してきたことを説明した。門傳氏は、津波に流された南三陸町に近い栗原市の市長である佐藤氏こそ、イスラエル医療チームの救援活動を受け入れられる人物であると、信じたのだ。
佐藤市長は、チームは自己完結班として来るため、受け入れ側で食事やその他の物品を提供する必要は無いと告げられた。しかしそれでも決断は簡単ではなかった。日本は、前例の無い大規模自然災害に見舞われたばかりでなく、危険な状態に陥った福島第一原発への対応で中央政府は手いっぱいだったのだ。もし医療チームの活動に何か問題が起これば、それは自分の責任になるであろうことを佐藤市長は知っていた。家族や財産を失って呆然としている南三陸の人々は、彼らの町にやって来る外国人たちにどう反応するだろう。ましてや彼らに診療して貰うことに。もし大きな余震がきて、医療チームにけが人でも出たら…。(実際、4月7日にはマグニチュード7. 4の大きな地震があった。)
市長は数時間、迷いに迷った。そして何十年も前に、イスラエルと日本の友好親善のために尽くすと約束したことを思い出した。今こそそれを守る時だった。
一旦決断した後は、一時も無駄にできなかった。3月21日には、2人の医師と1人の将校からなるイスラエル軍の先遣隊が、被害の状況を視察し本部隊派遣の準備をするために、宮城県に到着した。佐藤市長は彼らを伴って関係省庁を訪れ、宮城県知事などと面会した。そして、医療チームが最大限の活動ができるよう、自分が全力を尽くして支援することを約束した。
それから数日間の間に市長がしなければならないことは、山積していた。ほとんどのインフラが失われた南三陸町に、6棟のプレハブからなる臨時診療所を建設した。診療所を稼働するための電気と水も確保しなければならなかった。ポータブルトイレも設置された。栗原市内のホテルの部屋を、医療チーム員の宿舎として予約した。彼らを毎日診療所に運ぶバスのために、当時最も手に入りにくかったガソリンも確保した。
3月28日、イスラエル軍医療チームが到着した。医師や看護師や薬剤師、そして日本語を話す通訳まで含めて50人以上の大部隊だった。翌日には、小児科、外科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科、検査室、薬局、集中医療室からなる最新レベルの診療所がオープンした。彼らは、幾つかの国が日本に送った医療支援チームの中で、日本の医師免許が無くても診療を許された唯一のチームだった。
佐藤市長が当初抱いていた心配も、医療チームが地元の人々を円滑に診療する様子を見て吹き飛んだ。最初の患者は、津波で負傷していた南三陸町長だった。市長はまた、医療チームが地元の人々に暖かく感謝を込めて受け入れられたことを、嬉しく思った。彼らは地元の子供たちとサッカーまでして遊んでくれた。
この間、佐藤市長はほとんど自宅に帰らず、もし何かが起こった場合に備えて市庁に寝泊りしていたという。
200人以上の患者を診療した2週間が過ぎ、イスラエル医療チームはその任務を終えた。彼らは、X線診断装置やポータブル超音波診断装置など、持ち込んだ医療器材の一切を寄付すると申し出た。お別れの式で佐藤市長は感謝の言葉を述べた。
The clinic you left behind will be a cornerstone in the restoration of our city which suffered a major disaster. I have no doubt that your important contribution in restoring the area and the generous treatment you provided to our people will be a vital donation and a milestone in the relations between Israel and Japan.
その晩、医療チームが滞在していたホテルで開かれた内輪のお別れの会で、佐藤市長は「黄金のエルサレム」を歌った。そしてその歌声に、やがてチーム全員の歌声が加わった。遠い昔の約束が守られた瞬間だった。
外務省が数か月後にまとめた報告書には、イスラエル医療チームの活動について、「栗原市の協力なしでは、ここまで円滑に活動ができなかったと言っても過言ではありません。」と書かれた。
1万8千人以上の命を奪った東北大震災から4年が経った今、佐藤市長は、あの忘れがたい2週間を振り返る。彼は、何十年も前の自分自身の個人的体験と、イスラエル医療チームの献身的活動が、日本とイスラエルの友好に美しい一章を創り出したことを心から誇りに思っている。