1997年、私はホロコーストの歴史を伝える人々へのインタビューをまとめた『忘れない勇気』という本を出版しました。その中には、杉原領事のビザで救われたリオ・メラメド氏や杉原領事の伝記を書いたヒレル・レビン教授へのインタビューも含まれていました。
翌年、それを読んだ月刊『論座』の当時の清水建宇編集長から、杉原ビザの意味について記事を書いてみませんかと誘いを受け、私の思いも込めた記事を書きました。20年近く前の記事を久しぶりに取り出して読んでみようと思ったのは、最近二つのニュースに感じることがあったからです。
一つは、今年のHolocaust Remembrance Day(アウシュビッツが解放された1月27日)に、インターネット上で行われた「We Remember」というキャンペーンに、日本政府が投稿したことです。
January 27 is #HolocaustRemembranceDay. Chiune Sugihara was a Japanese diplomat during WW2 who saved the lives of thousands of Jews by writing visas for fleeing families. Today, several museums in Japan preserve their stories. Learn more: http://bit.ly/2FdF2a5
リンクされた日本政府のサイトは、日本国内にある杉原氏関連の3つの博物館を紹介し、こう結んでいます。
These museums and the stories they tell call young and old alike, in Japan and from abroad, to reflect deeply and work with courage and kindness for a peaceful, more humane world.
杉原氏の偉業を広く世界の人々に知らせる機会になったと、嬉しく思いました。
しかし数日後、現在のリトアニアで起きているある出来事に関するニュースを読み、深く考えさせられてしまいました。それは、リトアニアがホロコーストの共謀者であったという歴史を書いたリトアニアの女性作家ルータ・ヴァナガイタさんが、国内で非難され孤立しているという内容でした。
イスラエル紙『ハアレッツ』に掲載されたルータさんに関する記事:https://www.haaretz.com/world-news/europe/lithuanian-writer-refuses-to-stay-silent-on-country-s-part-in-shoah-1.5786267
この記事によると、ルータさんは、サイモン・ウィーゼンタール・センターのエルサレム所長で、自分自身もリトアニアで殺害された大叔父を持つエフレム・ズーロフ氏と、リトアニア国内の40か所のユダヤ人殺戮現場を訪ね歩き、それを目撃した地元の老人たちの証言を聞いたそうです。そして公文書館でのリサーチで、彼女自身の叔父や祖父も、ユダヤ人殺戮に関わっていたことを発見します。ナチスとの共謀は、一部の暴徒だけではなく、リトアニア政府関係者や軍なども関わった大掛かりなものだったとルータさんは書きました。
2016年に出版された 『Our People: Travels With the Enemy』は瞬く間にベストセラーになりましたが、年配の人々や保守的なグループからは激しく非難されました。さらに昨年には、ルータさんが、ソ連軍に抵抗してリトアニアの英雄とされている人物が実際はそうでなかった疑いがあると言及したことを発端に、彼女の著書は出版社によって全て書店から引き上げられ、著名な政治家が彼女に自殺を勧めているともとれる意見記事を書くほどの事態になりました。ホロコーストの歴史と真摯に向き合う努力をしてきた西欧の国々に比べて、東欧の国々は未だにホロコースト時の自国の歴史を完全に受け入れていないと、ルータさんは感じています。インターネット上でも彼女への脅迫が続き、外出もままならないそうですが、それでも彼女は、歴史の真実を語り続けると宣言しています。
杉原ビザとの関連でリトアニアの国名を聞くこと が多い日本では、この国で起きた悲劇についてあまり知られていないように思います。
14世紀からユダヤ人が住み始めたリトアニアには100以上のシナゴーグがあり、首都ウィルナスは「北のエルサレム」と呼ばれるほど、ユダヤ文化が花開いた地でした。しかし杉原氏がリトアニアを去った翌年の1941年、ナチスが侵攻し、国内のユダヤ人の95%にあたる22万人が殺害されます。そして多くのリトアニア人がそれに加担しました。
ワシントンにあるホロコースト記念博物館の中でも、3階まで吹き抜けの壁に夥しい数の写真が貼り付けられた Tower of Faces は感動的な展示です。それらはリトアニアにあったユダヤ人の小さな町の平和な日常を伝えるもので、ポートレート、家族の集まり、友人との語らい、卒業写真など、私たちの家族アルバムに貼られた写真と変わりません。この町は、ナチスの銃殺部隊が住人4千人全員をたった2日間で殺害したとき、数百年の歴史に終わりを告げました。
「死」ではなく「生」を展示することで、ホロコーストによって失われたものの深い意味と、そこから見学者が得るべき教訓を問いかけているようです。
20年前の記事で、私は、杉原ビザについてインタビューした人々のことをこう書いていました。「杉原氏の遺産を受け継ぐということは、自分たちの中にいる“杉原”を常に探し続けることなのだと、これらの人々は気づいている。」
そして、ルータさんがしようとしたことも、まさにそれではなかったのかと思えてきたのです。
私たち日本人も「杉原を誇りに思う」で立ち止まっていては、彼の遺産を真の意味で受け継いでいるとは言えないと思います。
ホロコーストに関する本を書いた後、私自身は18年間、旧日本軍捕虜だった米兵の問題に取り組んできましたが、今は黄ばんでしまった古い記事を読みながら、その歳月の間も、自分が杉原氏からインスピレーションを得ていたことを改めて感じています。
『論座』1998年9月号掲載記事