日本・イスラエル国交樹立70周年: 真の同盟へのロードマップ

エブラハム・クーパー
徳留絹枝

今年は、日本とイスラエルが国交を樹立してから70年という大きな節目の年です。この間、両国ともに、第二次世界大戦後の混乱した時代から大きな飛躍を遂げました。21世紀の今日、両国はどちらも最先端技術を持つ民主主義国です。

日本とユダヤ人の間の理解と友情を深めるために何十年も活動してきた私たちは、この記念すべき年を大きな期待を持って迎えました。

私たちの一人は1980年代から、日本の人々に、ホロコーストやユダヤ人の歴史そしてイスラエルへの関心と知識を深めてもらうために活動してきました。他の一人はこの25年間、日本人読者向けにホロコーストやユダヤ人に関する本や記事を執筆し、翻訳してきました。

私たちは何度も日本を訪れ、日本の政府関係者に会い、駐日米国大使・駐日イスラエル大使と面会し、報道関係者と話し合って来ました。

最近私たちは、興味深い記事を読みました。Thinking Bigger: Reimagined Alliances for the U.S. and Japan  それは、日本とイスラエルが、米国も含んだ強力な同盟関係を構築することを提案する内容でした。これは両国が追求するに値する素晴らしいビジョンです。しかし私たちは、日本がその前に、日本とイスラエルの関係強化を願う人々を深く失望させてきた、対イスラエル政策を見直す必要があると考えます。

新しい同盟を阻む障がい

私たちは数か月前、反イスラエルのダーバン会議(国連人種差別撤廃世界会議)20周年記念行事を日本がボイコットすることを求める意見記事を書きました。残念なことに日本は、この憎悪に満ちた反ユダヤ主義会議をボイコットした37ヵ国(日本以外のG7メンバー全てを含む)に加わることなく、出席することを選びました。

そして日本が12月1日国連総会で、ソロモン王の神殿があった神殿の丘をイスラム名でのみ表記した決議に賛成したことに、私たちは衝撃を受けました。米国を含む民主主義諸国は、国連が今後イスラエル・パレスチナ紛争解決にポジティブな役割を果たすための信頼を失墜させるようなこの決議を、拒否しました。また、多くのイスラエル人にとって、誇り高き古代民族・文化国家の日本が、自らの過去は熱心に崇め守りながら、ユダヤ人がその3500年の歴史を守り祝う権利を冷淡に否定したことは、信じ難いことでした。

日本が、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の問題に沈黙していることも、もう一つの懸念です。日本以外の援助国や多くの団体は、UNRWAの腐敗や憎悪教育を批判する声を上げてきています。

日本政府はさらに、パレスチナ自治政府に直接援助もしていますが、イスラエル人をテロ攻撃で襲ったパレスチナ人や死亡したテロリストの家族に自治政府が月給を払うMartyrs Fund(殉教者基金)を公式に非難したことはありません。米国は、“殺せば払う”と呼ばれるこの制度が廃止されない限り、パレスチナ自治政府への経済援助はしないという法律さえ成立させています。

そしてハマスなどのテロ組織が、イスラエルの壊滅を公然と目指すイラン政権から支援を受けていることはよく知られています。それでも、日本はそのイランと“歴史的な友好的関係”を維持してきています。

最後に、日本の政界や社会では、ナチスやナチスのシンボルへの不適当な言及や、現代のファシストやナチスに傾倒しているとさえ思われる、衝撃的な無知を露呈する事件が絶えません。そのような事件は、昨年の東京オリンピック開幕式を台なしにしそうになり、何人かの日本の政治家の評判を傷つけることになりました。

パートナーシップの機会

しかし良いニュースもあります。日本企業とイスラエル企業間のジョイントベンチャー数は、過去最高を記録しています。イスラエルはもはや日本にとって、はるか遠い見知らぬ国ではなく、経済分野での真のパートナーになりました。民主主義の価値観と技術主導の経済を共有する両国が強い同盟を結ぶことで、或いはそれに米国を含めることで、得られるものは計り知れません。

しかし、日本が真摯にそのような同盟関係を構築したいと願うなら、日本政府は、日本が本当にイスラエル・米国と価値を共有していることを、示さなければならないと思います。そうでなければ、日本は経済的な恩恵が欲しいだけで、政治的にはイスラエルの存在を直接脅かすような行動を続けていると見えてしまうでしょう。

同盟は信頼の上に築かれるものです。

真の同盟に向けたロードマップ

真の同盟関係を築こうとするなら、日本は以下のような行動を自発的に取り、反イスラエルの姿勢を改めることが必要です。

先ず日本は、国連で長年取ってきた時代遅れの立場を変えなければなりません。国連機関、特に人権理事会(UNHRC)が、イスラエルを繰り返し攻撃していることは誰でも知っています。でも日本のような影響力のある国が、他の民主主義国に加わり「ノー」と投票すれば、反ユダヤ主義とも言える国連の暴挙もいずれ制止させることができるでしょう。(注:国連総会は2021年度20本余りの非難決議を採択したがそのうち14本はイスラエル対象)

第二に日本は、UNRWAへの主要寄付国という立場を生かし、発言すべきです。財政不正行為やパレスチナの子どもたちへの反平和教育など、全ての領域で顕著な改革と透明性を求めるのです。

第三に、もし日本が米国・イスラエルと価値観を共有していると言うのなら、日本はパレスチナ自治政府を援助するにあたり、イスラエルへのテロ行為を奨励している殉教者基金の廃止を条件にするべきです。

第四に、日本政府は、遅ればせながら国際ホロコースト記憶連盟(IHRA)の反ユダヤ主義定義を採択し、そこに示された例を参考にして反ユダヤ主義と取り組むべきです。世界各地で反ユダヤ主義的事件が多発する中、IHRAの定義は、昨年8月にアジア国として初めて採択した韓国を含む主要民主主義国によって採択されてきています。

ここで提案したこれらの行動は、日本とイスラエル間の堅固な同盟関係に確実な基盤を作ることでしょう。

最後に両政府は、アブラハム合意をアラブ・イスラム世界とさらに広範な地域に拡大させるため、緊密に協力し合うことができると私たちは考えます。そのような努力は、イスラエルとオーストラリアの伝統的友好関係や、近年深まるイスラエルとインドの関係を考えると、「自由で開かれたインド太平洋」という日本の最重要外交政策をも前進させることができるはずです。

2022年新しい同盟に向けて

国交樹立70周年の節目が、両国民の友好関係を新たなレベルに持ち上げることを、私たちの英雄である故杉原千畝氏も喜んでくれるでしょう。彼は、ユダヤ人が最も困難な状況にあったホロコースト時、傍観することなく、何千人ものユダヤ人を確実な死から救いました。

上記のロードマップに沿って行動することで日本が得ることは大きいと、私たちは信じます。日本は、日本・イスラエル・米国の間に新しく躍動的な同盟を構築する機会に恵まれているのです。そうすることで、日本は他の多くの民主主義国と協調するだけでなく、同様の価値観を共有する古くて新しい国イスラエルと手を携え、自らの政治とビジネスの目標達成を目指すことができます。これらの有力な民主主義国が作り出す新しい同盟関係は、私たちと世界に希望に満ちた新時代を約束することでしょう。

エブラハム・クーパー
ユダヤ系人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルス)の副所長。 Global Social Action ディレクター。1980年代から頻繁に日本を訪問。2022年6月 The United States Commission on International Religious Freedom のコミッショナーに任命される。
ツイッター:@simonwiesenthal

徳留絹枝(とくどめ・きぬえ)
作家・翻訳家。著書に『忘れない勇気』『記憶-ホロコーストの真実を求めて』『旧アメリカ兵捕虜との和解:もうひとつの日米戦史』『障がい児と家族に自由を ―イスラエルの支援施設シャルヴァの夢』など。
ツイッター:@JewsandJapan

 

*この記事のオリジナルは2021年12月20日 The Mainichi に掲載され、その後 Jewish News Syndicate, Algemeiner, Mosaic などのユダヤ系メディアに転載されました。

ゴラン高原への旅: IDF「良き隣人作戦」

5月初め、2年8か月ぶりでイスラエルに旅行しました。私が昨年翻訳した『障がい児と家族に自由を ―イスラエルの支援施設シャルヴァの夢』の著者カルマン・サミュエルズ師とご子息のヨシさんに会えたことや、若い頃日本で空手を学んだダニー・ハキム氏と一緒に大統領夫人に会ったことなど、滞在中の思い出についてはウェブマガジン『ISRAERU』に書かせて頂きました。

今回のイスラエル旅行のもう一つの目的は、ゴラン高原にエイアル・ドロア中佐を訪ねることでした。ドロア中佐は数年前まで、イスラエル国防軍(IDF)のシリア人支援「良き隣人作戦」を指揮した人物で、現在は退役し、このIDF史上最大規模の人道支援作戦について語り継ぐ活動をしています。2年前、私が住む南カリフォルニアの町の大学で彼が講演した時に知り合い、その後折に触れてメールやズームで語り合って来たのですが、今回作戦が行われた場所を彼が案内してくれることになったのです。二人の友人(日経新聞エルサレム支局で長く働いたエリ・ガーショウイッツ氏とダニー)と一緒に、早朝からゴラン高原に向かいました。

途中、エリのお嬢さんが兵役を務めている基地に立ち寄り、彼女の話を聞きました。英語が堪能な彼女は、高校卒業の資格を持たないIDF兵士向けの授業を教えているとのことで、そのプログラムは、それらの若者たちが兵役を終えた後は高校卒業の資格を持って社会に出ていけるよう、IDFが提供しているのだそうです。そしてそれを受ける期間も兵役年数に組み込まれるそうで、感心しました。それにしても、お嬢さんの軍服姿を見つめるエリの誇らしげな、そして面会時間の終了が近づき彼女を何度も抱きしめる様子に、兵役中の子供を持つイスラエルの父親の思いを垣間見る思いでした。

ゴラン高原はイスラエル北東部シリアとの国境沿いにあり、1967年の六日戦争でイスラエルが占領し、その後1981年からイスラエルの行政と法律が適用されています。国連はこの併合を違法としてきましたが、2019年トランプ政権がゴラン高原におけるイスラエルの主権を認め、バイデン政権も、シリア国内のイラン武装勢力の脅威などを考慮し、それを翻していません。(日本ではあまり論じられませんが、六日戦争がエジプト・シリア・ヨルダンなどによるイスラエル攻撃寸前に起こされた自衛的戦争であったこと、長年併合を違法としてきた国連が極端な反イスラエルであることなども考慮されるべきです。米国が主権を認めた背景には、これらの理由もあったのではないかと思います。)

「良き隣人作戦」は計画的に実行されたものではありませんでした。それは2013 年の冬の夜、内戦で傷ついたシリア市民がイスラエル国境に近づいてきた時、現場にいたイスラエル部隊が人道的見地から地域の病院に運び、治療を施したことに端を発しています。(病院側の対応に関しては「敵国人に医療を施したイスラエルの病院を訪ねて」に書きました。)

幼い時からイスラエルを悪魔のような国と教えられて育った人々が、その国に救いを求めてくるほど、シリア市民は内戦で絶望的な状況に追い込まれていたのです。そしてその後、人づてに聞いた多くのシリア人がやってくるようになりました。当初は秘密裏に行われていた活動でしたが、イスラエル国防軍の上層部が本格的な支援作戦として部隊を編成することになりました。

そしてその指揮官に抜擢されたのが、西岸やガザでイスラエル国防軍とパレスチナ側との連絡調整を担うCoordination of Government Activities in the Territories (COGAT) で長年勤務してきたドロア中佐でした。父親や伯父などが職業軍人の家系に生まれた彼は、高校の頃からアラビア語を学び、COGOTでの任務で多くのパレスチナ人同僚と仕事をしたことから、アラビア語が堪能です。そのこともおそらく抜擢の理由の一つだったのでしょう。そしてドロア中佐にとって「良き隣人作戦」を指揮したことは、彼の人生を変える出来事だったと言います。

作戦は人道的目的だけでなく、国境沿いのシリア人の敵対心を緩和するという戦略的目的もありました。しかし、凍り付くような夜に親に連れられて裸足で国境に近づいて来る子供たちを見た時、自分にも3人の子供がいるドロア中佐は、胸が張り裂けそうだったと言います。そして最初は笑うことのなかった子供たちが、イスラエルの病院で治療を受け、おもちゃを貰い、やがて笑顔を見せるようになっていくことが、何より嬉しかったそうです。しかし、10歳位の男の子に「大きくなったら何になりたい?」と聞いた時、「僕は大きくならない。その前にきっと死ぬ。」という答が返ってきたことに衝撃を受けたこともありました。ドロア中佐は、数か月かの治療を必要とした女の子がそれを終えて帰国する時、感謝を込めて描いてくれたイスラエル国旗を今でも大切にしていて、講演の度にそれを見せます。私も彼に初めて会った時、見せて貰いました。

2016年に始まった「良き隣人作戦」は、アサド政権がシリア南部を再制圧する2018年まで続けられました。その間国際NGOの協力も得て、1,400人の子供を含む4,500人のシリア市民に治療を提供。また国境のシリア側に産院を設置し、そこで約1,000人の子供が生まれたそうです。支援は医療だけにとどまらず、食糧や燃料や衣類などの生活物資も700回に渡る搬送でシリア側に届けられました。やがて作戦は広く知られるようになります。当時シリア内にいたISIS やアルカイダなどの要員が市民になりすまし、国境で作戦に携わるイスラエル兵士を襲う可能性も常にあったそうです。そのような状況下で緊張感を持って遂行された作戦を、最後まで一人の死亡者も出さずに終えたことを誇りに思うと、ドロア中佐は語ってくれました。また、彼が指揮して助けたシリアの子供たちは決してそのことを忘れないだろうと、信じているそうです。

ドロア中佐が「良き隣人作戦」について語り継ぐ活動をするようになってから、さまざまなグループが、ゴラン高原に彼の説明を聞きに来るようになりました。イスラエル国防軍の若い将兵たちはもちろん、アブラハム合意が結ばれてからは湾岸国の関係者も訪れたそうです。アラブ首長国連邦から来たグループは、ドロア中佐の説明を聞き涙を流したということですが、彼らがその後、その体験をアラビア語のソーシャルメディアで伝えたことの影響は計り知れません。またハーバード大学ビジネススクールの学生達も話を聞きに来たそうで、この作戦が、長期的目的を持つことの重要さ・現実に沿った遂行・指揮官の指導力など、多くの教訓を学べるケーススタディになっていることを知りました。

イスラエル国内や海外のメディアでも数多く報道され広く知られるようになった「良き隣人作戦」ですが、ドロア中佐によれば、日本のメディアからの取材は一度も受けたことがないそうです。イスラエルから日本に伝えられるニュースはポジティブなものが少ないので、このようなエピソードこそ報道して欲しいのに、残念です。

24年間勤務したイスラエル国防軍から2019年に引退したドロア中佐は、その後の時間を家族と過ごすこと・博士号を取ること・「良き隣人作戦」に関する本を書くことに費やしてきたそうです。私たちを案内してくれた日、国防軍との共同出版が決まったという連絡が入り、一緒に喜びを分かち合うことができました。英語版も考えているということで、将来は日本語版も出て、この稀有な作戦が多くの日本人に知られることを期待したいと思います。

シリア側を見渡せるゴラン高原のベンタル山で

反イスラエル ダーバン会議20周年:      日本はボイコットを

エブラハム・クーパー
徳留絹枝

世界中のユダヤ人は、東京オリンピック開会式において、1972年ミュンヘン大会でパレスチナ人テロリストに殺害された11人のイスラエル人選手に追悼の黙祷が捧げられたことに、深い感動を覚えました。犠牲者の家族が49年間待ち望んできたことをようやく実現して下さったオリンピック競技大会組織委員会に、感謝します。

また、同委員会が、過去にナチスのホロコーストを揶揄した開会式演出担当者を解任したことも、迅速で適切な対応でした。

今回の大会は、世界がコロナ感染の大流行に見舞われる中で、希望と勝利の瞬間をもたらしました。

そして私たちは今、日本が外交の舞台でリーダーシップを発揮することも必要としているのです。

今年の9月は、2001年に南アフリカのダーバンで開催された「人種主義、人種差別、外国人排斥及び関連する不寛容に反対する世界会議」(ダーバンI)」から20周年になります。

ダーバン会議の目的は、国連決議52/111によれば、既存の人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容を見直し、それらに対して、国家、地域、および国際的な行動的措置を講じる具体的な提言を行うことでした。

しかし会議は、ユダヤ人国家に反対するNGOによって乗っ取られ、反イスラエルの憎悪イベントに退化してしまいました。

国連本部で9月に開催予定の20周年会議(ダーバンIV)でも、すでに世界に蔓延する反ユダヤ主義の火に油を注ぐような、憎悪のアジェンダが進められることが予想されます。

私たちは、日本が、米国・カナダ・英国・ドイツ・オーストリア・オーストラリア・ハンガリー・オランダ・チェコ・イスラエルに加わり、国連で開催されるこの不適切なイベントをボイコットすることを、強く求めます。

サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)は、茂木敏充外務大臣に対し、この不運な会議の20周年行事に日本は参加しないと宣言して頂くよう、正式に要請しました。そしてその手紙の中で、2001年のダーバンで何が起こったかを説明しました。

「“ダーバン宣言”と“行動計画”を採択したその会議は、前例のない反ユダヤ主義・反イスラエル・ホロコースト否定の憎悪の祭典となり、その結果、ホロコースト生還者故トム・ラントス下院議員が率いる米国代表団は退場することになりました。」

クーパー師を含むSWCの代表者は、イランの使節団一行から暴言や暴力を受け、ユダヤ人一行は、警察から、「ヒトラーは正しかった!」などというサインを持って集まった2万人の抗議者が押し寄せる中、外に出ないよう警告を受けました。ダーバン会議は、「イスラエル=アパルトヘイト」という大嘘が生まれた場所でもあります。

故トム・ラントス下院議員は、報告書「The Durban Debacle: An Insider’s View of the World Racism Conference at Durban」の中で、米国政府は、会議がイスラエルを不当糾弾する場になるのを防ごうとしたが、成功しなかったと書きました。

彼は「米国の外交官は、EU・カナダ・日本・オーストラリアなど、我々の最も親密な民主主義同盟国に支援を求め、会議を歪めようとする勢力に対抗する統一戦線を形成しようとしたが、厳しい抵抗に遭った」と振り返っています。


  2001年のダーバン会議に参加した米国代表一行:トム・ラントス下院議員
  パレスチナテロ被害者、SWCのクーパー師とシモン・サミュエルズ博士

しかしダーバン会議の崩壊後、2009年に開催された再検討会議(ダーバンII)では、米国の民主主義同盟国を含む10カ国がそれをボイコットしました。日本は出席しましたが、イランのアフマディネジャド大統領がイスラエルを「最も残酷で抑圧的な人種差別主義者の政権」と呼んだ演説を批判しました

ジュネーブの国連欧州本部で開催されたその会議で、クーパー師は、イラン大統領の上級補佐官が、ホロコースト生還者でノーベル平和賞受賞者のエリ・ヴィーゼル氏に面と向かって、“シオニストナチ”と何度も罵倒するのを目撃しました。

それでも日本は、2011年に開催された10周年会議(ダーバンⅢ)に、14カ国がボイコットする中、再び出席しています。

2020年東京オリンピックは、コロナの中でさえ、私たちが繋がり合っていることを世界に思い出させました。日本船籍でイスラエルの海運会社が航行させていたオイルタンカーをイランのドローンが攻撃し、英国人1人とルーマニア人1人が亡くなったと伝えられた事件も、平和な国際社会を脅かし湾岸地域を戦争に引きずり込もうとする勢力があることを、厳然と突き付けました。

ダーバン会議20周年が近づいた今、私たちは、日本が、ダーバンIVをボイコットすることを正しくも選択した多くの民主主義国に加わることを、強く求めます。

そうすることにより、日本は中東の過激派に打撃を与え、世界各地でヘイトクライムとの難しい戦いを強いられているユダヤ人を支援することになるでしょう。

後記:結局日本はダーバン20周年会議に参加しました。

エブラハム・クーパー師
40万人のメンバーを擁するユダヤ系人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部:ロサンゼルス)の副所長。 Global Social Action ディレクター

徳留絹枝(とくどめ・きぬえ)
著書に『旧アメリカ兵捕虜との和解:もうひとつの日米戦史』、『忘れない勇気』、『命のパスポート』(エブラハム・クーパー師と共著)など。
最新翻訳書 『障がい児と家族に自由を ―イスラエルの支援施設シャルヴァの夢』

* この記事の英語版は2021年8月6日、The Mainichi に掲載されました。

Interview with Rabbi Kalman Samuels

By Kinue Tokudome

Rabbi Kalman Samuels is the Founder and President of Shalva, the Israel Association for the Care and Inclusion of Persons with Disabilities.

The Japanese version of this article was published in the February 2021 issue of “Myrtos” magazine in Japan.

障がい者支援施設「シャルヴァ」 の夢: カルマン・サミュエルズ
『みるとす』2021年2月号


Shalva National Center in Jerusalem

Tokudome: First of all, thank you very much for allowing me to translate your beautiful and inspirational memoir, Dreams Never Dreamed.

The book contains so many moving episodes—your awakening to Judaism while traveling to Israel as a college student from a secular family in Vancouver, marrying a very religious 18-year-old daughter of a Holocaust survivor, having your healthy 11-month-old son, Yossi, lose his vision and hearing because of faulty vaccination, your struggle to find a way to help Yossi, seeing the breakthrough in Yossi’s ability to communicate, the legal fight against those who were responsible for Yossi’s injury, opening and expanding of Shalva in spite of many obstacles along the way, being blessed with generous donors, and overseeing Shalva that has become a world-renowned center for children with disabilities and their families based on the philosophy of inclusion.

What kind of experience was it for you to write this book, revisiting all these episodes over the years, some of which were very painful?

Samuels: Several years after Yossi was injured, I found myself living in New York with a family of very young children and working long hours in the computer field to make a living.   My goal was to help my dear wife Malki with anything and everything I could do to ease her physical and emotional burdens. That included caring for the children before I left for the hour-long subway trip from Brooklyn to Manhattan each morning, and upon returning after 6 PM, spending time with each child and helping to put them to sleep.   After that, I required time to study and enhance my professional computer knowledge.

Malki had enormous pressure and responsibilities and I did not wish to add to her burdens with my thoughts and concerns.   So I began recording those thoughts and feelings in a late night diary, and in some way this was my therapy.  As Shalva developed I found myself sharing many of the stories with friends and donors and realized that they found them to be of great interest and most meaningful.

I finally decided to share the stories behind the Shalva story in an organized manner in book form.   It was a most challenging and trying experience to relive it all in great detail and organize it on paper but I am pleased that I wrote it.  


Courtesy of Shalva

Tokudome: Those who read this book find out that the real driving force behind Shalva is Malki, your wife. Was she also involved in the writing process for this book?

Samuels: Malki has always wanted to stay under the radar, far from the public eye.  My desire to write a book was extremely difficult for her because clearly, I would have to write about her, but she recognized how important it was for me and allowed me to write it.

I consulted with her on delicate topics but she has not read the book and probably never will.

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