ダニー・ハキム:私のボンダイ・ビーチの家

ユダヤ人の居場所が、もはや「安全だ」と思えなくなったと
2025年12月22日
The Times of Israel Blogから

私が初めて迎えたクリスマスは、ボンダイ・ビーチだった。1959年、私は生後10か月だった。カイロ生まれの兄ジェフはベジマイトのサンドイッチを食べ、私は砂浜の上のプレイペンに座り、それを眺めていた。その光景を『シドニー・モーニング・ヘラルド』のカメラマンが撮影し、クリスマス特集号の3面に掲載した。私はいかにも典型的なオーストラリアの赤ん坊に見えたことだろう。だが、私が「幸運な国」と呼ばれるこの国の安全と希望の中に生まれた、最初期のエジプト系ユダヤ人移民の一世代であったことを知る者は、ほとんどいなかったはずだ。

私がオーストラリア社会に溶け込んだのは、教室を通じてではなかった。スポーツ——ラグビー、クリケット、サーフィン、そして後には空手——を通じてだった。スポーツは、私が「所属すること」を学んだ言語だった。

それから20年後、私はボンダイ・ビーチ空手クラブを設立した。クラブは今日に至るまで活動を続けている。ユダヤ人も非ユダヤ人も含め、何世代ものオーストラリア人がここで稽古に励み、規律、敬意、責任を学んだ。世界チャンピオンも何人か輩出した。

最初のクリスマスから25年後、私は東京の国立競技場で開催された第1回松濤館世界空手大会に、オーストラリア代表として出場していた。緑と金色のユニフォームを身にまとい、自由と機会、そして「居場所」を与えてくれた国への深い感謝を感じていた。私たちの代表チームは、最良のオーストラリアを体現していた。

レバノン、イラン、ペルー、香港、エジプト、ギリシャ出身の移民たち——そして、象徴的存在としての私、ユダヤ系オーストラリア人。私たちは多様なコミュニティに根ざしながら、誇りをもって祖国を代表した。

私たちの世代のユダヤ系オーストラリア人にとって、ボンダイ・ビーチは単なる海岸ではなかった。出会いの場であり、社会的な拠点だった。1960年代から80年代にかけて、ボンダイ・パビリオン前の中央階段は「リトル・エルサレム」と呼ばれていた。その下の砂浜は、ユダヤ人移民、そしてやがてその子どもたちが集う場所となった。この呼び名には、存在と帰属意識の両方が込められていた。十代の頃には、友人と会い、当時の冗談で言えば「ユダヤ人の女の子をチェックする」場所でもあった。

パビリオンの裏側——今回の大量殺害事件が起きたまさにその場所で——高齢のホロコースト生存者たちが、何時間も座ってチェスやチェッカーをしていた。

「エルサレム階段で会おう」
この言葉を、私たちは皆よく覚えている。それは単なる場所ではなかった。安全、継続性、共同体の象徴だった。

後に私がアリヤー(イスラエル移住)した時、多くのイスラエル人から「なぜエデンの園のようなオーストラリアを離れたのか」と不思議がられた。今振り返ると、私たちはこうした日常的なユダヤ人の生活の場が、永遠に守られるものだと、あまりにも無意識に思い込んでいた。

だからこそ、今回ボンダイで起きた反ユダヤ的殺害事件は、これほど深く胸を打ったのだ。それは遠い場所の悲劇ではない。世代を超えて築かれてきた「場所」と「安全感」そのものへの攻撃だった。

1980年代初頭、「コミュニティ・セキュリティ」という言葉が一般化するはるか以前、私たちの小さなグループは、後にユダヤ人コミュニティ・セキュリティ・グループとなる組織を共同設立した。それは被害妄想からではなく、先見の明から生まれたものだった。ユダヤ人の歴史は、備えを欠いた楽観主義がいかに脆いかを教えている。

その先見性は、経験に裏打ちされていた。1975年、私はマッコーリー大学の図書館前の芝生で、約20人のユダヤ人学生とともに、約150人のアラブ人男性に襲撃された。私たちはプラカードを掲げていただけだった。彼らは棒、鉄パイプ、ナイフで武装していた。パレスチナ人のホロコースト否定論者が演説する集会の最中だった。私は生き延びるために初めて、身体を張って身を守らねばならなかった。深いトラウマとなり、今も心に残っている。

1982年には、シドニーのユダヤ系ハコア・スポーツクラブ——私のボンダイ・ビーチ空手クラブが入っていた建物——で爆弾が爆発した。こうした出来事は、今ではほとんど語られないが、「距離は免疫にならない」ことを理解した世代を形作った。

2002年、イスラミストによるテロは海外にいるオーストラリア人を襲った。バリ爆弾テロで82人のオーストラリア人が殺害された。現在、ボンダイ・ビーチには彼らを追悼する壁画がある。

当時、テロは海外のオーストラリア人を襲った。今や、オーストラリア人は自国で、自分たちのビーチで、しかも光が闇に勝つことを祝うハヌカの最中に殺されている。

2023年10月7日以降、「ユダヤ人に死を」という叫びが、シドニー・オペラハウス前やハーバーブリッジで響いた。そして今、ボンダイ・ビーチで暴力が現実となった。報道によれば、犯人はそうしたデモに参加していた可能性がある。もし事実であれば、それは重要だ。それは偶発的な事件ではなく、憎悪が常態化し、やがて実行に移された連続性を示している。

イスラエル人にとって、この感覚はあまりにも痛切に馴染み深い。今、ユダヤ系オーストラリア人が経験していることは、10月7日の衝撃と重なる——安全だと思っていた場所に、憎悪が到達したという現実。

イスラエルに住むオーストラリア系ユダヤ人は、この喪失を二重に感じている。距離が崩れ、ボンダイとエルサレム、シドニーとテルアビブが、痛みの中で結びつく。かつて“エルサレム階段”と呼ばれた場所に暴力が及ぶとき、世代をかけて築かれてきた安全感は砕かれる。

しかし、テロが最後の言葉を持つことはない。

強さとは、海辺でろうそくを灯すこと。
恐れずに子どもたちを教えること。
傷つきながらも、持ち場に戻るボランティアたち。

2025年のクリスマスを前に、私は1959年のボンダイ・ビーチのあの写真を思い出している。自分を包む安全が、いかに尊く、いかに脆いものかを知らなかった、ユダヤ人難民の赤ん坊。

その同じ砂浜に暴力が及んだ今、私たちは思い知らされている。いったん得られた「居場所」も、守り続けなければならないのだと。

ボンダイは癒される。イスラエルは、この道のりを痛いほどよく知っている。そしてイスラエルとディアスポラ全体で、その責任は共有されている——明確に語り、共に立ち、日常の場所を光の場所であり続けさせる責任を。

テロは沈黙と否認の中で繁殖する。
再起力は、連帯と行動の中で育つ。


著者について
ダニー・ハキム OAM は、空手の世界選手権で2度の銀メダルを獲得した選手であり、日本より七段の黒帯を授与されています。また、「Budo for Peace」および「Sport for Social Change」の創設者です。

アズリエリ財団、マカビ・ワールド・ユニオン、中東平和同盟(Alliance of Middle East Peace)、ならびに Kids Kicking Cancer の理事を務めています。

2022年1月には、国際社会への貢献が評価され、オーストラリア勲章メダル(Order of Australia Medal:OAM)を受章しました。さらに2025年には、イスラエル・パラリンピック委員会の名誉会長に選出されています。

ワレンバーグと杉原領事に救われた命を繋ぐ

徳留絹枝

私はこの7年間、イスラエルという国をそこに生きる人々を通して学びたいと考え、7回の訪問を重ねてきました。最初の数回は、在米ユダヤ人の友人から紹介された人々に会って話を伺い、それを基に幾つかのインタビュー記事を発表しました。しかしその後は、イスラエルで出会って友人となった人々がさらに新しい出会いを作ってくれる、というパターンになっていきました。それらの人々との交流は、イスラエルが日々直面する様々な問題と、それに対応しながらも彼らが脈々と守り通してきた価値観を学ぶ機会を、私に提供してくれました。

特に今年3月に娘と出かけたイスラエル旅行は、命を何より大切にするユダヤ人の価値観と、ホロコースト中に救われた命がその後の世代にどう受け継がれているかについて、驚きの出会いを通して考えさせられるものでした。

ワレンバーグの愛と勇気の生きた遺産

まず前首相のヤイル・ラピド氏と会えたことは、直前まで実現するか分からなかっただけに、心躍る体験でした。司法制度改革反対派を率いて超多忙な彼が、私たちに会ってくれたのは、日本経済新聞で長く働いた友人のエリ・ガーショウィッツ氏が、ラウル・ワレンバーグの絵本を贈呈したいという私の願いを、ラピド氏のスタッフを通して叶えてくれたからです。

第二次大戦末期のブダペストで10万人のユダヤ人を救いながら自分自身はソ連の牢 獄で死んだスウェーデン人外交官を描いたこの絵本は、サイモン・ウィーゼンタール・センター副所長のエブラハム・クーパー師と私が20年前に一緒に書いたものです。

ラピド氏の父親で著名なジャーナリストだった故トミー・ラピド氏と彼の母親(ラピド氏の祖母)は、ワレンバーグに救われていたのです。さらに、その絵本に前書きを書いてくれた故トム・ラントス米国下院議員は、トミー・ラピド氏の生涯の親友だったというご縁もありました。

ラントス議員が「私たちの娘と孫は、ワレンバーグの愛と勇気の生きた遺産」と書いた箇所をお見せすると、ラピド氏は「普遍的なメッセージですね。持ってきてくれて有難う」と答えてくれました。

ラピド氏自身も、自分がワレンバーグの愛と勇気の生きた遺産であることを知っているのだ、と感じた瞬間でした。

「ダニエラの家」

 そしてもう一つ、私にとっては偶然という言葉では到底説明できない出会いがありました。きっかけは、日本で学んだ空手の精神を基に「Budo for Peace」という団体を設立した友人のダニー・ハキム氏が勧めてくれた、ビーティ・ドイチュさんとの面会でした。彼女はその数週間前に東京マラソンに参加したばかりの5人の母親ランナーで、ダニーも彼女と一緒に来日して応援していたのです。

エリが、ビーティさんと私たちが会う場所に連れていってくれました。テルアビブに住む友人ののあ・コフラーさんも同行しました。それは、摂食障害などの精神的問題を持つ若者が、学校や社会に復帰する過程を支援する非営利団体で、運営しているのはカナダ出身のエリの古くからの友人2人だということでした。ビーティさんはその団体の熱心な支援者だったのです。

団体の名前は「Beit Daniella(ダニエラの家)」といって、エルサレム南西近郊の町ツァ・ハダサの美しい丘陵地帯に広がる牧場と厩舎の中にありました。設立者のハダサ・パーデスさんと理事のサラ・エイゼンさんが迎えてくれ、その後ビーティさんも加わりました。

ハダサさんは、博士号を持つ数学者でブリュッセルのNATO本部で働いていましたが、イスラエルに住むという長年の夢を実現するため、2009年にイスラエルに移住したそうです。悲劇が襲ったのは2017年。娘のダニエラさんが拒食症に陥り、3ヶ月の入院生活を送った後退院したものの学校や社会に復帰できず、14歳で自らの命を絶ってしまいました。


生前のダニエラさん

ハダサさんは、ダニエラさんが安心できる環境で時間をかけて社会復帰に備えるプログラムを探したが、見つけられなかったと言います。娘を失った悲しみの中で彼女が決心したのは、そのようなプログラムを、同じような問題を抱える若者とその家族のために提供することでした。カナダ時代からの親友で、やはりイスラエルに移住していたサラさんは、それを聞き、成功していたマーケティングのキャリアを捨てて、ハダサさんの計画に参加することを決めます。

自分のことはなかなかできなかったダニエラさんが、セラピー犬と過ごす時は心ゆくまで愛情を込めて世話をできたことから、プログラムは犬や馬などを使った動物セラピーに力を入れることになりました。そして設立後僅か5年近くで、地域の幾つかの病院と提携し、臨床心理士や作業療法士やソーシャルワーカーなどの専門家に加え、多くのボランティアが働く活発な団体に育っていきました。私たちが訪ねたときも、10代の少年少女たちが犬や馬の世話をしながら、自然の中で生き生きと時間を過ごしているように見えました。

亡くなったダニエラさんのいとこだったというビーティさんは、この団体を支援するためにマラソンを通してファンドレイズをしていること、自分が走ることで若者をエンパワーしたいことなどを、説明してくれました。

「ダニエラの家」でマラソン選手ビーティ・ドイチュさんと

因みに、ダニエラさんの名前は、アメリカン航空11便機内でテロリストを制止しようとして9-11テロ事件の最初の犠牲者となった叔父ダニエル・ルイン氏を偲んで名付けられたということです。ルイン氏は31歳の若さながら、インターネットのパイオニア的研究をしていたイスラエル人でした。

杉原ビザで救われ日本軍捕虜になった祖父

我が子を失うという最大の悲しみの中で、他の命を救うために立ち上がったハダサさんの勇気と行動力に、私は深い感銘を受けました。しかし、その後彼女が発した言葉は驚くべきものでした。施設の中を歩きながら、彼女は何気なく「私の祖父はオランダ出身のラビだったのですが、第二次大戦中は Dutch East Indies(オランダ領東インド:現在のインドネシア)で日本軍の捕虜となりました」と言ったのです。

ハダサさんは、私がそのような歴史などあまり知らず「そうだったんですか」程度に受け流すと思ったのかもしれません。私が16年以上、旧日本軍の捕虜だった人々と活動してきたことを、彼女は知る由もなかったからです。

What are the chances? (こんな偶然があり得るのか?)その言葉が何度も私の頭の中を駆け巡りました。

短い訪問をできるだけ「ダニエラの家」見学に使いたいと思った私は、ハダサさんの祖父の体験については後で詳しく尋ねてみようと考え、その日は深く聞かずに終わりました。

カリフォルニアの自宅に帰った私は、見学させてもらったお礼に付け加え、もしよかったらお祖父さんの捕虜体験について聞かせてほしいと、ハダサさんにメールを送りました。すぐ返ってきた返事には、祖父のラビ Chaim Nussbaum が1988年に出版した回想録を送ると書いてありました。

しばらくして届いた『Chaplain on the River Kwai 』 を読み始めた私は、そこで再び、驚くべき新事実を発見することになりました。ナスバウム師は妻と2人の幼い子供と共に1940年9月、リトアニアからシベリア鉄道に乗り日本に渡ったと書いてあったのです。彼らをホロコーストから救ったのは杉原ビザに違いありません。しかしナスバウム師の著書は、捕虜時代につけていた日記を基にした内容で、リトアニアを脱出できたことの詳細には触れていませんでした。この本が執筆された80年代には、杉原千畝氏のビザ発行にまつわるエピソードはほとんど知られていませんでしたから、当然だったかもしれません。

書かれていたのは、一家が日本に到着した後、神戸のオランダ領事が、ラビであり数学・物理の学位を持つナスバウム師に、オランダ領東インドは彼のような教育者を必要としているので行ったらどうかと勧めたこと、ナスバウム夫妻がそれに同意して、ジャワに渡ったという説明だけでした。そして1年半後、その地は日本軍に侵略され、彼は捕虜となり、家族は収容所に収監されるという運命が待っていたのです。

すぐハダサさんに問い合わせると、祖父母が、当時3歳の息子と2歳の娘(ハダサさんの母親)とリトアニアを脱出できたのは、間違いなく、オランダのヤン・ズヴァルテンディク非常勤領事と杉原領事が発行したビザのおかげだと、教えてくれました。そして、ハダサさんの叔母が後年その経緯をまとめたという記述(若きナスバウム師の写真入り)を送ってくれました。

それにしても衝撃でした。たった2日間しか滞在しなかった今回のイスラエル旅行で、私は、ワレンバーグに救われた家族の子供と杉原領事に救われた家族の子供に会えたのです。それも一方の家族は私が長年取り組んできた旧日本軍の捕虜だったとは! 私が支援したのは、2万7千人のうち約40%が死亡するほど過酷な扱いを受けた米国の元捕虜たちが、日本政府と企業に謝罪を求める活動でした。しかしその活動を通じて、オランダ人捕虜の苦難を知る機会もありました。

彼らの受けた被害の規模は米国の捕虜以上でした。日本軍の侵攻が始まった当時、オランダ領東インドに住んでいた約30万人のオランダ人のうち、4万人が捕虜となり、8万人の民間人が収容されました。そして日本軍の残虐行為により、4万5千人のオランダ人が死亡したのです。その歴史は、日本に謝罪と補償を求める旧日本軍のオランダ人被害者団体「対日道義負債補償財団(Foundation of Japanese Honorary Debts)」によって語り継がれてきました。

今回ハダサさんと出会ったことで、私自身も、改めてこの20数年の自分の活動を振り返り、オランダ人被害者との触れ合いが何度かあったことを思い出しました。2000年、ドイツで成立間近だったナチス強制労働被害者への補償基金「記憶・責任・未来」に関し、米国の元捕虜にも日本による同様な基金設立の可能性がないか関係者の意見を聞くため、私はベルリンを訪問しました。その帰途、「対日道義負債補償財団」の役員だったBarend Cohen 医師を、オランダのユトレヒトのご自宅に訪ねていたのです。トラウマを専門とする精神科医として、加害者が責任を認め正義が回復されることの必要性を説かれていたことを、思い出します。

さらにオランダの被害者は日本政府を訴えていました。敗訴に終わったものの、2003年当時ロースクールに通っていた娘と一緒に、米元捕虜による対日本企業強制労働訴訟に関する論文を書いた際、私たちは、彼らのケースにも言及していたのです。

私が支援し一緒に活動した米国の元捕虜たちは、65年余りの歳月の末に、やっと日本政府と彼らに強制労働を課した企業一社から謝罪を受けましたが、2015年頃から次々と亡くなっていきました。自分の役割は終わったと感じた私は、それで、以前に取り組んでいた日本とユダヤ人(今回は特にイスラエル人)との間に理解と友情を育てる活動を再開しました。

そんな私が今回、杉原領事からのビザ発給と日本軍の捕虜という二つの体験をした家族にイスラエルで出会ったのは、運命だったのか。そんな思いに駆られながら、私は、ナスバウム師の回想録を読み始めました。

私はこれまで、旧日本軍の捕虜が書いた体験記を数えきれないほど読み、彼らの体験を直接聞き、泰緬鉄道で強制労働に就かされた英国人捕虜アーサー・レーン氏と毎日のようにメールを交わした時期もありました。

ナスバウム師の著書はそのどれとも違っていました。彼が書き留めていた日記には、英国・オランダ・オーストラリアなどの連合軍捕虜6万人余りと現地で狩り集められた18万から25万人とも言われるアジア人労務者が強制労働に就かされた、悪名高い旧日本軍による泰緬鉄道建設の日々が描かれています。(1万2千人の捕虜と約9万人のアジア人労務者が死亡)

しかし、彼自身の苦難は殆ど語られていないのです。その代わり、ユダヤ教Chaplain(従軍牧師)としてユダヤ人捕虜たちをスピリチュアルな面から支えようとする彼の必死の努力と、それにも拘らず死んでいく多くの捕虜たちへの思いが、30代前半という若さながら、深い洞察をもって綴られています。そして多くの場合、日記は妻のRachelさんへの呼びかけで始まっていました。

死んでいく捕虜から託された手紙の最後の文章は、ナスバウム師の捕虜体験がどのようなものだったかを端的に伝えているように思えました。

「僕の最愛の妻と子供たちには、僕の最期がどんなに悲しいものだったか、どうか絶対に伝えないでほしい。」

そしてナスバウム師自身の悲惨な体験の直接的記述は少ないものの、捕虜仲間で、戦後有名なイラストレーターになったロナルド・シール氏のスケッチが、それを補っています。

 

日本軍の敗色が色濃くなった1944年の秋には、にわか造りの小屋ながら捕虜収容所の一角にShul (シナゴーグ)が作られ、Ohel Jacobと名付けられました。そこでは新年や贖罪の日などの礼拝が行われ、ナスバウム師はユダヤ人の捕虜たちを信仰の面から支え続けます。

日本軍が降伏し、ナスバウム師が、ジャカルタの女子収容所に監禁されていた妻と子供たちに再会できたのは、実に3年ぶりのことでした。家族は戦後カナダに移住し、ナスバウム師はトロントに幾つかのユダヤ人学校を設立しました。


開放後のナスバウム師と彼の著書

救われた命を未来に繋ぐ

私が杉原領事のビザ発行について知ったのはもう30年以上前の1991年のことです。ニューヨークに住むユダヤ人と結婚した友人が教えてくれたのですが、その後頼まれた仕事でシカゴ・マーカンタイル取引所会長のリオ・メラメド氏にインタビューする機会があり、彼の経歴から、彼の家族が杉原ビザで救われたに違いないと気付きました。それまでそのことを知らなかったメラメド氏は大変感激して、杉原氏の未亡人に感謝の手紙を書かれました。

少年時代に両親と共に杉原ビザで救われたリオ・メラメド氏

その後1995年、ロサンゼルスに引っ越してから、サイモン・ウィーゼンタール・センターで、杉原氏の幸子未亡人にもお会いすることができました。

メラメド氏はその後、米国ホロコースト記念博物館の評議員を務め、2000年には、ヤン・ズヴァルテンディク領事と杉原領事の人道的行為を伝える 展示 『Flight and Rescue』の実現に尽力しました。メラメド氏からの招待で私もオープニング式典に出席しましたが、幸子夫人が大勢の参加者から拍手で迎えられ、感動的なひとときでした。

それでも当時は、杉原氏のことを知る人はあまり多くなかったように記憶しています。しかし現在、彼の偉業は至る所で語られるようになりました。日本政府も積極的に伝え、多くの日本人が彼を誇りに思っています。

しかし私たちは、杉原氏を誇りに思うだけで終わってよいのでしょうか。ハダサさんの家族の体験が示すように、杉原氏のビザ発行は当時の歴史から切り離された空間で起こったエピソードではありません。いのちの大切さという人道的・普遍的な価値観から何千人ものユダヤ人難民を救った杉原氏を生み出したのも、その価値観から大きく外れた道に進んでいったのも、同じ日本なのです。

ハダサさんに、そのどちらも経験した家族としての思いを尋ねると、次のような返事が返ってきました。

「杉原氏は、ヤド・ヴァシェムによって “Righteous among the Nations”(諸国民の中の正義の人)に認定されています。私たち家族は、杉原氏の親切さと勇気に永遠の感謝を捧げます。その感謝は、その後私たちに起こったことで打ち消されるものでは決してありません。」

また同じ質問に対するハダサさんのいとこの返事も送ってくれました。

「二つの出来事の間に折り合いをつける必要はありません。命を救った日本人も残酷に命を奪った日本人も、それぞれが自分の選んだ行為に責任があるのです。私は、母や祖父母が日本人を軽蔑するような話し方をするのを、聞いたことがありません。収容所内の悲惨な事件や状況を語るのに「無慈悲」などという言葉を使うことはありましたが、日本人全体をネガティヴな言葉で表現することはありませんでした。私たちは憎悪に取り憑かれた国ではないのです。」

彼らがこのように思ってくれているのは、本当に幸運なことだと思います。それに応えて私たちがすべきことは、杉原氏やワレンバーグのような人々が救った命がユダヤ人の中でどのように受け継がれているかを知り、その根底にある“命の大切さ”という普遍的価値を改めて考えてみることだと思います。

イスラエルでは、その価値は抽象的概念ではなく、一人ひとりの生き方を通して日々受け継がれています。私は、そのことを、イスラエルへの最初の訪問でインタビューしたオファー・メリン医師から学びました。彼は2011年、津波で壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町に駆けつけてくれたイスラエル軍医療部隊の指揮官でした。ポーランド生まれの彼の父親は、幼い頃カトリック教信者に匿われて生き延びたホロコースト生還者でした。孤児としてイスラエルに移住した父親は医者になり、全ての患者を差別することなく診察するすことに生涯を捧げたそうです。そしてそれがメリン医師にも受け継がれていることは、明らかでした。

さらにもう一点、杉原氏の行為だけを歴史から取り出して自賛するのではなく、当時の歴史に謙虚に向き合い、日本軍の被害者となった人々に誠意を示すことも大切です。

娘を失った悲しみを経験しながらも、命を救う活動に自分を捧げているハダサさんも、杉原氏の愛と勇気の生きた遺産なのだと思わずにはいられません。偶然に出会ったとはとても思えない彼女の活動を、できる限り支援していきたいと思います。

そして、ハダサさんが来日して、彼女の家族の歴史と彼女の現在の活動について、日本の人々と共有できる日が来て欲しいと心から願います。

Beit Daniella ウエブサイト: http://www.beitdaniella.org/
                                              

 

ワレンバーグに導かれたラピド氏との面会

徳留絹枝

第二次世界大戦末期のブタペストで10万人ものユダヤ人をホロコーストから救いながら、自分はソ連の牢獄で死んだラウル・ワレンバーグのことを初めて知ったのはいつ頃だったか、正確には思い出せません。リチャード・チェンバレンが演じた1985年のTVドラマを見て、このスウェーデン人外交官のことを知ったのか、あるいはもっと前にニュースなどで聞いていたのかもしれません。

しかし、彼の勇気と彼自身を襲った悲劇に心を動かされた記憶はありますが、その後自分にとってどれほど深い意味を持つ人物になるか、当時は想像もしていませんでした。

1991年、私は当時住んでいたシカゴで偶然にも、杉原千畝氏のビザで救われたリオ・メラメド氏と出会います。彼は、金融先物取引の父と呼ばれ、シカゴ・マーカンタイル取引所の会長を長く務めた人物でした。彼が書いた杉原未亡人への感謝の手紙を送付するお手伝いをするなど、はるか昔に遠い地で起こったホロコーストの歴史を身近に感じた最初の出来事でした。

25年ぶりに再会したメラメド氏と

その後ロサンゼルスに引っ越して数年後、日本を代表する出版社の雑誌にホロコーストを否定する記事が掲載されたことを知りました。何か自分にできることはないかと考え、当時地域のボランティアに打ち込んでいた私は、ロサンゼルス地区に住む日本人のために、ホロコーストの歴史を伝える「寛容の博物館」見学を計画しました。数十人が参加し、その時歓迎の挨拶をしてくれたのが、「寛容の博物館」を運営するサイモン・ウィーゼンタール・センター副所長のエブラハム・クーパー師(ラビ)でした。私にとっては、それが彼との長い友情の始まりでした。

その後クーパー師の励ましもあり、私は、ホロコースト生還者・歴史家・活動家などへのインタビューをまとめた本『忘れない勇気」を1997年(英語版は1999年) に出版しました。ウイーンまで会いに行ったサイモン・ウィーゼンタール氏、インタビューをしたのが縁でその後彼の回想録を訳すことになった歴史家ラウル・ヒルバーグ氏など、一人一人との出会いが思い出深い体験でした。特にラウル・ワレンバーグに救われた米国下院議員トム・ラントス夫妻と知り合えたことは、大変な名誉でした。

ラントス議員は1981年、下院議員の最初の仕事として、ワレンバーグを米国名誉市民にするために尽力しました。当時は、ワレンバーグがソ連の牢獄でまだ生きているのでないかという希望もあったのです。署名式には、レーガン大統領とラントス夫妻の他に、ワレンバーグの異父弟妹、そしてワレンバーグの行方を自ら追っていたサイモン・ウィーゼンタール氏も参列しました。


President Reagan’s Remarks Proclaiming Honorary Citizenship for Raoul Wallenberg on October 5, 1981
(Courtesy Ronald Reagan Presidential Library)

名も無いフリーランス作家の私を、ラントス夫妻は心にかけて下さり、拙著に推薦文を書いてくれたり、当時大学生だった私の娘をワシントンの事務所のサマーインターンにしてくれたりしました。

2002年、クーパー師と私は、日本語と英語でワレンバーグのユダヤ人救出を描いた絵本『いのちのパスポート』を出版しました。ラントス夫妻が前書きを書いて下さり、私のシカゴの友人宮尾三枝子さんが美しい挿絵を描いてくれました。

 

ホロコーストは私がそれほど打ち込んでいたテーマでしたが、私はその後16年あまり、太平洋戦争中に旧日本軍の捕虜だった米国の退役軍人たちと活動することになります。ホロコーストを語るには、自分の国の歴史にも向き合うべきだと考えたことが発端でしたが、結果的には80代・90代の元捕虜たちと長い年月共に活動し、かけがえのない数多くの思い出を作ることができました。

戦時中の過酷な取り扱いに関し、元捕虜が求めた日本政府と日本企業からの謝罪(正式なものは一社だけでしたが)は、長くかかりましたが何とか得られ、元捕虜たちは、ひとりひとり亡くなっていきました。私自身も、彼らとの活動と友情の記録をまとめた著書を2017年に出版し、一つの時代が終わったのだという寂しさにしばらく襲われたものです。

そして私は再び、ユダヤ人の問題に目を向けました。私の関心がイスラエルに向くまで忍耐強く待ってくれていたクーパー師は、2016年の私のイスラエル初訪問を全て計画してくれました。学ぶことは山のようにあり、その後コロナを挟みながらも、私のイスラエルへの旅は7回に及びました。コロナで行けなかった2年半の間には、エルサレムの著名な障がい者支援施設「シャルヴァ」の設立者カルマン・サミュエルズ師の回想録を日本語に訳しました。

そして2023年3月のイスラエル訪問で、遠い昔に初めて彼のことを知って以来、多くの人々との出会いと友情を生み出してくれたワレンバーグが、再び貴重な出会いの場を作ってくれました。父親と祖母をワレンバーグに救われたイスラエル前首相のヤイル・ラピド氏とお会いできたのです。私の娘も一緒でした。

私がラピド氏に会いたいと思ったのは、彼が、著名なジャーナリストだった父親トミー・ラピド氏の死後、父親になりすまして書いた回想録『Memories After My Death: The Stories of My Father Joseph “Tommy” Lapid』  を読んだ時です。その中に、1944年秋、ブタペストでユダヤ人救出活動を続けていたワレンバーグに、母親(ラピド氏の祖母)が救われる箇所が出てきます。

1944年10月、アイヒマンはブタペストにまだ残るユダヤ人たちを、絶滅収容所に送り始めました。トミー少年が12歳半だった時、彼の母親は収容所への移送車が待つ国境までの行進に駆り立てられます。しかしその時奇跡が起こります。

夕暮れ時になって突然、母が帰ってきて言いました。「彼が私たちを救ってくれたの」母はその 「彼 」が誰であるかは言わなかったし、言う必要もありませんでした。その時、ブダペストにはただ一人の「彼」しかいなかったからです。ラウル・ワレンバーグです。

ワレンバーグは、外交官ナンバープレートをつけた大きな黒い車に乗って、突然現れました。車から出てきて、行進を先導するナチスの大佐に「私はスウェーデン大使だ。私の保護パスポートを持った女性が何人かいる。彼女たちをすぐ解放することを要求する」と告げたのです

この箇所を読んだ時、私は、クーパー師と書いたワレンバーグの絵本をラピド氏に贈呈することを、決心しました。その絵本の中に、まさにその行進の様子を描いたページがあったからです。

またラピド氏の父親が、少年時代同じようにブタペストでワレンバーグに救われたラントス議員と親友であることも書かれていました。

一緒にこの絵本を書いたクーパー師に、2人揃ってイスラエルに行く時に贈呈すべきか尋ねると、もし一緒に行けなくても、機会を逃さず進めるべきだと言ってもらえました。

面会の実現を助けてくれたのは、30年近く日本経済新聞のためにエルサレムから働いたエリ・ガーショウィッツ氏でした。彼とは2度目のイスラエル訪問で偶然知り合い、その後は毎週のようにイスラエルの政治状況を伝えてくれる友人になっていたのです。

私は、長いジャーナリスト生活でイスラエル政界に多くの友人や知己を持つエリに、ワレンバーグの絵本の表紙とラントス夫妻の前書きの写真、そして私自身の経歴を添えて、面会の可能性を探ってほしいと頼みました。しかしその後イスラエルでは、ネタニヤフ政権が進める司法制度改革を巡って国を二分する大論争が起こり、反対派の急先鋒に立つラピド氏は、おそらくイスラエルで最も多忙な人物の1人になってしまったのです。

ラピド氏と会えるかどうか分からないまま、娘と私はイタリアに向け旅立ちました。イスラエルには、その後に立ち寄ることになっていました。

エリが、ラピド氏と5分間だけ会えることになったと知らせてきたのは、ローマからイスラエルに向けて発つ前日のことでした。

実際にお会いしたラピド氏は、その直前にも直後にも目まぐるしいスケジュールが詰まっていたに違いありませんが、リラックスしたムードで、私と娘を暖かく迎えて下さいました。ワレンバーグの絵本を手に取り、何度も頷かれながら私の説明を聞いてくれました。

たった5分ということで、話せることは限られていましたので、私はラントス議員夫妻が前書きの中でお孫さんたちに語りかけた「君たちはワレンバーグの孫でもあるんだよ」という言葉を、お見せしました。そして、お忙しい中時間を取ってくださったことに感謝しますと伝えると、ラピド氏は、「いえいえ、あなたが持ってきてくれたメッセージは普遍的なものです。有難う」と答えて下さいました。

ラピド氏は、「日本にもユダヤ人を救ってくれた外交官がいましたね」と杉原千畝氏のことにも触れてくれました。

最後にエリが、ラピド氏との面会前に私たちが訪問していた「シャルヴァ」のカルマン・サミュエルズ師からのメッセージを、ラピド氏に見せました。障がいを持つ娘さんの父親であるラピド氏は、「シャルヴァ」の支援者でもあるのです。

エリは後日、面会までの裏話と感想を送ってくれました。

面会を実現するのが難しかった理由は、ラピド氏が連立政権の進める司法改革に反対する最前線にいたためです。反対していたのは彼一人ではありませんが、彼の役割は象徴的でした。彼の1時間1時間が貴重なため、とにかく依頼するタイミングが重要だと感じました。現在進行形で進む「国家的状況」を見守る中、時間がどんどん過ぎていきました。 あなたがイスラエルに到着する48時間前になったとき、僕は、面会依頼を伝える絶対的締め切りのぎりぎりにいることを悟りました。

私は、ラピド氏の広報官として10年以上働いてきた人物に頼むことにしました。(彼は私の日経時代の知り合い)WhatsAppであなたの経歴を含む依頼を送ると、彼はそれを担当者に伝え、推薦してくれました。当日あなたが会った Cheli さんはラピド氏のアシスタントで、連絡係として面会をコーディネートしてくれました。

この面会がうまくいったと僕が思う理由は、(1)ラピド氏が純粋に興味を持ってくれ、なぜ私たちが面会を依頼したか分かってくれたようだったこと、(2)超過密に違いないスケジュールの中で、面会が10分間も続いたこと、です。また、ラピド氏にとっては、素晴らしい気分転換になったのではないかと思います。

あっという間の面会でしたが、ワレンバーグが繋いでくれる人の輪がまた一つ広がったと感じたひとときでした。

ホロコースト時に危険を顧みずユダヤ人を救った多くの非ユダヤ人(Righteous gentile )に共通する価値観―命の大切さーを最も劇的に示して消えていったワレンバーグの物語が、これからも語り継がれることを願っています。

『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』

二階宗人

先にこのブログにサイモン・ウィーゼンタール・センターのエブラハム・クーパー師のインタビュー記事が掲載されていました。彼は「歴史」を学ぶだけではなく、共感を伴った「記憶」が大切であることを述べていました。

さて、私はこのほど『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』(Matters of Testimony  Interpreting the Scrolls of Auschwitz、ニコラス・チェア/ ドミニク・ウィリアムズ 共著、 みすず書房 / ISBN978-4-622-08703-8 )を翻訳する機会を得ました。

この本はナチのアウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所でガス室や死体焼却場での作業を強制されたユダヤ人たち(特別作業班「ゾンダーコマンド」)が、ひそかに書き残した文書や撮った写真を主題としています。これらのゾンダーコマンドのなかには自分の家族の死体をガス室に見出し、片付けさせられた人もいました。そうした凄惨な犯罪現場で、彼らはなんとか筆記用具やカメラを入手して、複数の文書と写真4枚を残すことができました。文書は地中や人骨や灰に埋めて隠されました。これは命がけの抵抗運動であり、発覚すればグループ全員が射殺されるかガス室送りとなるのは自明の理でした。彼らは外に向けては、自分たちや殺された人びとの報復を訴え、内に向けては自分の生の存在証明を確認しようとしたのでした。

ゾンダーコマンドが密かに撮った写真:ユダヤ人の死体を焼いている
(Wikimedia Commons)

こうした行為の記録は歴史を構成するのであり、私たちが通常、歴史(史料)と呼んでいる範疇に属します。私たちがホロコーストの「歴史を学ぶ」「過去を学ぶ」と語るとき、そうした歴史とか過去とかを想起していないでしょうか。しかし私たちがたとえば昨晩の夕食のことを思い返すとき、それはメニューを列挙してみる以上に、そもそも夕食を食べた、おいしかった、食卓を囲む皆の表情を追想するといった、そうした夕食をめぐる事柄が核心的に重要なはずです。メニューを並べるだけでは、そもそも思い出す意味がないのです。閑話休題。ホロコーストの歴史は知識として探究されるだけでは不十分であり、衷心から<感じとられる>ものでなければならないということなのです。

私は同書の「訳者あとがき」で、映画『ショア』を制作したクロード・ランズマン監督が述べた言葉として、「(ショアは)ネクタイをしめて机の向こう側で思い出として語られる歴史などではない。思い出は薄れるものだ。(その出来事を)追体験するためには語る者は高い代償を払わなければならない。すなわちこの歴史を語ることで苦しまなければならない」と語ったことを記しました。これは証言者について述べられた事柄ですが、証言を受け取る者についても同様のことがあてはまると、私は考えます。ホロコーストの犠牲者の証言を現前させ、体感するときこそがその歴史との接点をもつことであり、その歴史を学ぶということなのであろうと思います。

本書はそうした「歴史認識」を謳っています。エブラハム・クーパー師は「歴史」を学ぶだけではなく、共感を伴った「記憶」が大切であると述べました。本書の結論もそこにあるというのが、訳者としての私の結論でもあります。

 

*二階宗人(にかい・むねと)
ジャーナリスト.NHK記者としてローマ(エルサレム),ジュネーヴ,ロンドン,パリの各総支局に駐在。東西冷戦下のヨーロッパ,中東紛争,バチカンの動静などを取材し, ヨーロッパ中東アフリカ総局長。 訳書にシルリ・ギルバート著『ホロコーストの音楽』Music in the Holocaust, Confronting Life in the Nazi Ghettos and Camps(みすず書房、2012年)がある。