のあさんと私は、通常の常識から言えば出会うことはなかったはずでした。一九七八年九月、私はアメリカへ、のあさんはイスラエルへと飛び立ちました。私の方が歳は上でしたが二人とも二〇代、前途に何が待っているかも知らず、ましてや四〇年後もその地に住んでいる自分など想像さえできない、旅立ちでした。
そんな二人が出会えたのは、偶然の(というよりきっと運命的な)糸が繋いでくれたからでした。
2019年1月、のあさんに案内してもらったJaffaで
昨年一〇月、私は二度目のイスラエル旅行に出かけました。二年前の初めての訪問時と同様、友人のエブラハム・クーパー師と一緒にゴラン高原を訪れたり、何人かの著名なイスラエル人に紹介して貰ったりと、有意義な数日を過ごしました。しかしイスラエルを去る最後の日は土曜日の安息日で、正統派ユダヤ人のクーパー師にはアテンドして貰えず、自分独りで過ごすことになりました。
エルサレムのイスラエル博物館を訪問することに決めましたが、その前にある人に電話してみることにしました。それは、数日前にクーパー師と一緒に昼食を共にした元駐米大使のマイケル・オレン氏から、「この日本女性に電話してごらん」と、渡されていた電話番号でした。オレン氏の古い友人で、長くテルアビブの日本大使館で働いていたという女性です。金曜日の夜に電話してみると、翌日時間が調整できれば、イスラエル博物館に来てくれるということでした。因みに、オレン氏との出会いも、その年の春にロスアンゼルスで知り合った在イスラエル作家ヨシ・クレイン・ハレビ氏がアレンジしてくれたものでした。
翌日、のあさんは見ず知らずの私に会うため、テルアビブから来てくれました。その日の深夜の便で発つ私にはたっぷり時間があり、博物館を出た後、土曜日でも開いているレストランを探し、お互いのことやら時を忘れて語り合いました。
同じ年に日本を離れたことに加え、私たちにはもう一つの共通点がありました。夫を亡くしていたことです。一九八八年に精神科医のご主人と結婚されたのあさんは、二〇〇〇年にご主人が亡くなった時、お嬢さんはまだ九歳だったそうです。子供二人が成人して結婚した後に夫を亡くした私より、どんなにつらく大変だったろうと想像しました。
その日の語らいは、もう一人の素晴らしい友人との出会いに繋がりました。のあさんが一時日本に帰っている時に東京のユダヤセンターで知り合ったというダニー・ハキム氏です。松濤館空手七段の彼は「Budo for Peace」という団体の設立者・代表で、日本の武道の精神を通して異なる人々の間に寛容と相互尊敬を広める活動をしている人物でした。ハキム氏の活動を知れば知るほど、お会いしたくなり、今年一月またイスラエルを訪れ、のあさんのご自宅でインタビューさせて貰うことができました。(ハキム氏に関する記事「武道を通して平和のメッセージを広げる」は朝日新聞のRonzaに掲載されました。)
その後私は、五月にまたイスラエルを訪れ、のあさん、ハキム氏、そして長い間日本経済新聞のエルサレム担当として働いたエリ・ガーショウィッツ氏などと、交友を深めていきました。
そして、のあさんのお嬢さん綾さんが九月に結婚することになり、光栄なことに、私も招待を受けて出席することになりました。ご主人を亡くした後、お独りで育ててこられたお嬢さんの結婚を、私も心からお祝いしたいと思いましたし、イスラエルをまた訪問できるのも嬉しいことでした。
当日はテルアビブ郊外の美しい結婚式場に、五〇〇人もの人々が集まり、素敵なカップルを祝福しました。のあさんも、綾さんの純白のウエディングドレスと対でイスラエル国旗のカラーとなる、美しいブルーのドレスを着て、輝くような笑顔でした。二〇代初めにイスラエルに渡られてからの四〇年の歳月が、きっと感慨深く駆け巡ったことでしょう。
のあさんと私には、今大きな夢があります。イスラエルと日本の間に人間レベルでの理解と友情を育てることです。私たちが出会ったのは、その夢の実現の為だったのかもしれません。一人の人間が出来ることには限りがありますが、身近なところから始めていきたいと思っています。
以下は、のあさんが二〇代の頃に書かれたエッセイです。
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ユダヤ教に改宗した数少ない日本女性の手記…
出日本記
宇野加代子(現在は コフラーのあ加代子)
「アンネの日記」…この本の扉を開けたその一瞬から、イスラエルへの旅、そしてユダヤ人になった、私の出日本記は始まる。
幼いころから絵が好きで、読書家だった亡き父の影響もあり、いち早く活字に慣れ親しむことを知っていた私は、日本昔話、イソップ物語、十五少年漂流記、ロビンソン・クルーソー、ガリバー旅行記、アラビアン・ナイトといった数々の童話と共に、少女期を過ごした。そうした中で読んだのが、「アンネの日記」である。当時十歳。十三歳の少女が語る戦争。生まれて初めて目にする言葉を、何度か呟きながら、その響きが掴めず、ましてユダヤ人が一体何であるのか、知るすべもない。どうしようもない悲壮感、やり場のない怒り。何かを知るには、幼すぎたし、問うものの意味は海のように広い。だからこそ、その印象も深かったのだろう。私の「アンネの日記」は涙のしみでいっぱいになった。
アンネ・フランク…。彼女にとって、戦争の恐怖、悲しみ、苦痛、そのすべてを訴えられる唯一のものは、日記だった。そして、その生きた存在が私であり、今こうして世界中で生活している人間である。本の扉を開けてからの十年間彼女が投げかけたものは、自分の成長の中で、育てられていった。― 何故戦争が、何故、何百万人という数のユダヤ人が、第二次世界大戦のわずか数年間の間に虐殺されたのだろうか。―
その意味を思想的、歴史的に考える意味で、数多くの書物を読みながら、やがてパレスチナ問題にぶつかった。一冊一冊と読量は増えながら、それとは反比例するように、求めるテーマが迷宮入りしていく。結論的に言って、中東戦争が単なるユダヤ人と、アラブ人の民族戦争ではなく、その名を借りた米・ソの闘争に他ならないからだろうか。一九七三年の十月戦争がもたらした、世界的影響を考えるとき暗礁に乗り上げられたように、途方にくれてしまう。特に、経済的ハネ帰りと焦点を絞ると、各国の動きは、中東における米・ソ対立の平和的収拾に、あまりにも大きく依存され、その中の日本の立場は、中東戦争に関与していないことがはっきりしているために、得意な地位を占めている。石油の安定供給という死活問題を抱えながら、アメリカに同調していかなければならない日本の現状。このジレンマの中で、複雑な外交上、経済上の問題に、どう対処しなければならないのだろうか。また、我々はそれをどう把握し、生きていかなければならないのか。少女期から思春期を迎え、戦争に対する漠然とした疑問は、やがてしだいに、実生活の中で、形となって現われてくる。
十八歳。すでに高校を卒業し、友人たちが大学へ社会へと進む中で、私は一人取り残されてしまう。というのも、「進学」か「就職」この二選択を前にして、自分自身、何をしたいのかわからないままに、どちらかを選べなかったのである。当然ではあるが、家族を含めて、周囲の目は、私の生き方に対して、冷やかだった。結局、美術を専攻したいという希望がありながら、今一つ踏ん切りがつかず、その年はある出版社で編集のアルバイトを始めることになった。
出版社と言うのは、独特な世界で、時間という枠がない。その代わり、仕事は日々様々で、時には深夜まで及ぶことも、珍しくない。こうした職業が生んだ現象なのか、私の見方なのか、編集に携わる人間は、一風変わっていて、個性的である。仕事の面でもプライベートな面でもストレートにぶつかっていく自分に、彼らは正直で暖かく、冷やかな目の代わりに、相手を思うが故に批判する、言葉の鞄を持っていた。あの頃、中東問題を演説ぶっては、「世界は、きみ中心に廻っていると思ったら、大間違いだよ。」と言われたことがなつかしく、彼らの言った二言目、「社会を知らないから、やれ、中東戦争だの、日本経済がどうのこうのと、無責任なことが言えるんだ。生活に追われるようになってごらん。きみの今の言葉は、そっくりそのまま、日常語に置き換えられるだろう。」― も今から辿ると、家を出て、独立生活に入った私の本音になっていった。
一九七八年、イスラエル建国三十年の年、同出版社の経営者と、企業の有り方をめぐって衝突。そこを辞めるとフリーになってイラストやカットを描き始めるが、何もかも左巻き。アパート代から、その日その日の食費など、頭の中をよぎるのは、金銭的なことばかり。四苦八苦しながら、それでも何とか仕事が入り、暮らせるようになったとき…ふっと言い知れぬ淋しさを感じた。…ほんの一年前まで、自分には常に問うていたテーマがあり、それが生活のテーマであったし、私の生き方だった。今はどうだろう…ただ、生活をする以外何があるのだろうか。夢中で始めたイラストやカット。きっかけは経済的な理由だったにしろ、自分なりの芸術観を持って描いてきた筈なのに、それもいつしか腐ってしまった。疲れがすべてを覆い、惰性だけが息をしていた。
そのとき、目にしたのが新聞写真、三十回目の独立記念日、酔いしれるイスラエルの人々と、過去の戦争スナップだった。自分とは対照的に、「生きる」その原点に喜びを求め、明日を約束されていない彼らの生きざまは、私を捕らえ、全身に脈打つものを感じさせる。「イスラエルへ行こう。」彼らをこの目で見、肌で知りたい。少なくとも、写真の彼らを実際に見ることは、現在の自分に何かを教えてくれるだろう。それが、旅立ちの翼だった。暗闇の中の一抹の期待は、また、十年間抱き続けた疑問を、もう一度意識させる。日本の社会に出てわずか二年。挫折という経験も、何事も目で見触れ、体験してみなければ始まらない。そんな勇気を贈ってくれた。もしかしたら博打のようなものだったかもしれない私の決心は、堅く深く手にしたイスラエル行の片道切符に釘付けされていた。
「もしもし、これからイスラエルへ行きます。」刻々と迫る飛行機時間。期待と不安、動揺、淋しさ、興奮、さまざまな感情が入り乱れ自宅へダイヤルを廻した。事前に何も知らされていない家族にとって、驚きは私の感情以上に複雑なものだったに違いない。母は泣いていた。父、幼い妹、弟、お互いが言葉に詰まり、涙が悲しみの代名詞。たった一つ、家族についてだけ後悔を残し、飛行機はゆっくり飛び立った。同年九月十七日。そう、あれは成田国際空港、一周年の日でもあった。
ところが、こうして飛び出してきたもののイスラエルの第一印象は灰色だった。九月下旬と言っても暑さは想像以上で、初めて耳にするヘブライ語も耳障りだった。何よりその騒々しさは、東京のいわゆる都会のそれとは一変していて、何だろう…。初めて海外に出たせいだろうか。着いて、すぐ一か月半ほど寝込むことになってしまった。原因と言えば、不慣れな土地に来たという以外に、居住先のテルアビブの友人(イスラエル人と日本人の夫妻)から、精神的なショックを受けたことが、大きかったが、要するに社会に出たときと同じように、無知だったのである。病気と、自分の意思とは逆行していく時の流れ。苛立ちと焦りを感じながら、すでに十二月。彼らとは、一日一日と噛み合わなくなって行きとうとう、知人から紹介してもらった、エルサレムに住むHさん夫妻の御宅に、転がり込むように来てしまった。眠れず泣くことしかなかった日々。身も心も病み、誰ひとり信じられなくなっていた。最近マスコミを騒がせた、日本人留学生の海外での異常行動も、今はその経験から頷けるのである。
一つ間違えれば、同じ道を歩いていただろう。H夫妻も、初対面でそれを察してか、特に理由を聞かず、暖かく迎えてくれた。その後彼らの勧めもあり、エルサレムにアパートを見つけ、近くのウルパン(ヘブライ語学校)に通い始める。一カ月、二カ月といたずらに時は過ぎ行き、それを見送るだけの毎日は、苦痛だった。家族のいない異国で、たった一人。ただ、エルサレムという土地感が、無言で慰めてくれていた。
そんなある日、ウルパンの授業の帰り、バスで町に行く途中のことだった。隣り合わせに座った小肥りの中年女性が、笑みながら尋ねてくる。「あなた、日本人?」この一言から何処に住んでいて、何をしているのか、家族の様子や友人関係と、イスラエルでは、初対面の人間に対して屈託なく聞くのは、彼女だけではない。最初は、わからなくて、とにかく質問されること一つ一つ、誰彼となく正直に答えていた。それも一度、二度、三度と重なるようになると、これは、人なつこいこの国の国民性であり、素朴な会話なんだと理解した。だから、この婦人が、ヘブライ語で話しかけてきたときも(あー、またか。)と、適当に返事をしていた。二言、三言、言葉を交わしていくうちに、ポツンと会話が切れる。どうやら彼女のヘブライ語も、ウルパン三カ月目の私と、どっこいらしい。英語で話そうとするが、しどろもどろ。最後には、バックから紙とペンを取り出してきた。― その一瞬だった。私は、手袋をはずして、セーターの袖口を折り返し、メモをしようとした彼女の右手 …正確には、内側の右手首に入れ墨された、何ケタかの番号を見たのである―。
体の中を電流が走り、心臓は止まる思いだった。一点を見つめたまま、動けないでいると、「機会があったら、一度遊びにいらっしゃい」その中年婦人は、電話番号と住所を書き残し、バスから降りた。彼女が去って、町に着いたものの、私はあの数秒間のでき事から、抜け出せないでいた。
番号と何ケタかの数字が意味するもの突然の大きな闇に呑まれたように、立ちすくんでしまった。と同時に何百もの痩せこけた顔どんよりした目、あのアンネの日記に折り込まれた一枚の写真が、激しく脳裏を打つ。彼女は、ナチの強制収容所で生き延びた一人だった…。過去の衝撃な事実を目の当たりにして、もう一度、ユダヤ人虐殺への疑問が大きく広がる。足は、そのままバス停に戻り、気がつくと、町から遠くないレハビアの一角に立っていた。訪ねてきたものの、すぐブザーが押せず、ぐずぐずしているとドアが開いた。微笑の中に、かすかな驚きを浮かべた彼女が目に入る。突然、訪ねてきたことを詫びようとする私を、応接間に招き、もう何年来の友人のように、コーヒーか紅茶かと勧めてくれた。
「あなたが来るだろうと思っていたわ。」こう口火を切った彼女は、静かに席を立ち、奥の部屋にいる息子を呼んだ。彼は、去年兵役を終え、現在ヘブライ大学で、法律を学んでいるというナイスガイ。
「息子は英語を知っていてね。だから言葉が通じなくても大丈夫。彼が通訳してくれるから、私の話をわかってもらえるわ。」彼女はすでに、私がここに来た理由を感じていたのである。左手で、そっと右手を摩りながら、静かに目を伏せた。
「あれは五歳のときだった。あの収容所に送り込まれたのは…。」深い追憶感が、部屋全体に漂う。ポーランドで生まれ、文字通り戦争下の幼年時代。家族は、フランク一家と同じような逃亡生活を送るが、終戦を迎える一年前、ゲシュタポに捕らえられ、収容所へ。以来、飢えと過酷労働に虐げられたのは、言うまでもない。たった一つ幸運だったのは、いやそれは奇蹟だったのだろう。ガス室に投げ込まれながら、駆けつけた連合軍によって、いったん閉ざされた扉が、開かれたことである。だが、生き残ったのは彼女一人だった。両親を始めとする、その数多くは、彼女の上に折り重なって倒れていた。少しでも、ガスから遠ざけようとした必死の行動が、彼女を救ったのである。
午後の陽だまりの中、私達は抱き合って泣いた。こうした戦争記が、現在生きているユダヤ人の間に、いくつ存在していることだろう。それにも関わらず、彼らは過去の悲劇を克服し大らかさとやさしさを失っていない。それを思うと、自分の精神的ショックなどは、なんとちっぽけなことか。孤独感と冷え切った心は、砂糖菓子をなめるように、少しづつゆっくりと、溶けていった。これをきっかけに日本だったらこうだという見識を捨て、在るがままのイスラエルに、もう一度白紙に向かい始める。そういう意味で、三月の末、こちらで知り合った日本人女性と、ヒッチ旅行へ出かけたことは私に精神的なゆとりを与えた。
砂糖菓子 ― それは、旅行を含め、数々の出会いと触れ合いから知った。イスラエルの人々のやさしさと思いやり。成田を発つこと三年間、私をいつも支えてくれた彼らの愛だった。一番最初のそれがH夫妻であり、立ち直るきっかけをくれた、あの婦人である。目を閉じるとあの人、この人の顔が思い浮かび、一つのメロディを醸し出す。ああ、何度その愛に励まされたことだろう。それが結果的にユダヤ人になろうと、考え始めた根拠である。
ウルパンのコースを終え、友人の紹介で翌年八月、エルサレムの国立美術館に、務めるようになると、しだいにその芽が出始めてくる。そして、この国を知れば知るほど、芽は育ち、根を張っていった。しかし、それを実らせ、何年と生存させるには、この地は、あまりにも多くの問題を抱えていることを、何カ月か後、局面するのである。それは、マハネ・イェフダの市場で起こった、爆弾事件だった。
週一回の買い出しは、いつもの習慣で、その日もバスに乗って市場に出かけた。夕方の混み合う時間には、ほとんど買い物を終え、たまたまオレンジを買い忘れたことに気付き、店先に並ぶが、人でいっぱい。諦めてバス停へ歩いて行く途中、突然爆発音と悲鳴、市場を出てわずか五分のことだった。その後のニュースで、爆弾が仕掛けられたのは、あの時オレンジを買おうと立っていた場所だったのである。その上、もっと悲しいでき事は、ウルパン時代のイランから移住してきた友人と家族が、その犠牲者となり友人の義理の兄にあたる人が死亡、幼い妹は片足を切断したこと。
私は恐怖と悲しみに苛まれながら、現実を見た。こうしたテロリストによる惨事は、後を絶たない。建国三十一年というものの、国は現在、過去、未来を通して戦争という、線上に置かれているのである。一ケ月後、イスラエル軍は南レバノンを攻撃、テロリストに報復する。そのニュースを耳にしながら私は複雑な心境だった。そして眠れない一夜が過ぎた翌日、襲撃戦に加わった友人の一人が、戦死したことを知らされるのである。どうして生きることは、こんなにも難しいのだろう。心の中に大きな波紋を残したまま、やがて三十二回目の独立記念日がめぐってくる。
私は、その前日一束の花を抱え、ハール・ヘルツェルにある戦死した兵士たちの墓地を訪れた。景色の良い山の上に建てられたその墓地には、何百もの霊が、彼らの母国を見守るように、静かに眠っている。白い墓石に刻まれた、兵士の名と年齢、戦死した場所を追いながら、一つ一つ尋ね歩いた。十七歳、十八歳、十九歳、戦火に身を委ね、散っていった若い数々の命。どんなに祖国の平和を願っていたことだろう。もし、彼らが生きていて、このイスラエルを見たら、どう思うだろうか。…恐らく、手放しで喜べないに違いない。それが伝わってくるようだ。彼らの無言の叫びに取り囲まれ、私はもう傍観者でいることに耐えられなかった。
イスラエル滞在二年目。一九八〇年の夏の始め、決心を固めた私は、十年ほど前にユダヤ人になった日本女性の紹介で、ある女性ラバイ、ヘブライ語では「ラバニット」と呼ばれる方の家を訪問した。
アンネの日記から始まる、一連の私の話を聞くと、それまで無言だった彼女はゆっくりと口を開いた。
「私達は、遠い昔から憎まれ、蔑まれた民族であり、現在も敵対視している人々が、この世界にいるんですよ。もう一度ユダヤ人になる意味を考えなさい。容易なことではないのです。」小柄で、かなりの年配者であるが、その声は、聡明で威厳がある。
「充分、承知の上です。」きっぱりと言い切った私の顔を、睨むようにして見返し、宗教裁判で手続きの必要があることを説明すると、それ以上は何も言わなかった。翌日、手続きを済ませ彼女の家に行くと、いきなり旧約聖書をよこし、創世記の第一章を読んでみろと言う。ウルパン五カ月程度の語学力では、スラスラいく訳がない。つっかえながら読んでいくと、彼女は大きな溜息をついた。
「聖書を読むのでさえ、こんな調子で本当にユダヤ教について、勉強していくつもりなんですか。」言葉もろくにわからない人間に、あらましにしろ、聖書やタルムード、六一三もある戒律を教えていくには、かなりの忍耐力が必要だったことだろう。週二回の授業で約一年、怒鳴られないで済む日は数えるほど少ない。現在は、師として良い相談相手であり、祖母のような彼女ではあるが、最初はなかなか馴染めなかった。それというのも、毎回行くたびに、ユダヤ教に全く無知な人間を掴まえて、何を勉強したいのかと聞くのである。本当に彼女は、教えるつもりがあるのだろうか。疑ったこともあったが、結果的にいい効果をもたらせたのである。それは、意欲を掻き立てられたこと。わからないなりに、本を漁ったり、自分で調べることは、ヘブライ語を上達させた。こうしてユダヤ教を勉強し始めて、半年以上たった頃だろうか。ラバニットは、何気なく呟いた。
「加代子も、ずいぶんヘブライ語が上達しました。私は不親切だったかもしれませんが、あなたの熱意を信じていました。」試行錯誤を繰り返すうちに、何かが私に宿ったようである。彼女の呟きの中に、今までの人生を見るような気がした。
「熱意」―自分とユダヤ民族に、共通したものがあるとすれば、それかもしれない。歴史的な彼らの不朽精神には、勝らないとしても、「アンネの日記」から十三年余り。自分の中に芽生えた疑問は正直に受けとめ、答えを求めてきた。時には、その異常さに周囲を呆れさせ、自分自身を徒労の渦に巻き込んだこともある。それは何故か。私はユダヤ教の中に見出したように思う。
ユダヤ教 ―五千年に亙り、民族を支えてきたもの。そして聖書やタルムードその他彼らが書き残していった、数々の書物を解釈することは、確かに難しい。だが、原点は「生」である。今年の四月から、通い始めたイェシバ(ユダヤ教を学ぶ所)の一人のラバイは、それを最も簡潔に、「神は、人類にトーラー(旧約聖書最初の五書)を通じて『どう生きるか』を学ぶことを与えた。」と言った。つまり、先に問うたことは、全てここに帰り、この「生」に対するモラルの高さが悲惨で厳しい運命の下に生まれたユダヤ民族の糧なのである。イスラエル滞在三年間、彼らから学んだものは大きい。
しかし、イラクの原子炉爆撃以後の情勢を見ると、常に不安と疑問がつきまとう。幼い子供たちでさえ、願いごとの筆頭に置く「シャローム」。本当の平和は、一体いつ、訪れるのだろう。
六月の末、父の急死で一時帰国し、今自宅の懐かしい一室でこの「出日本記」を書いている。記憶が走馬灯のように、流れるのを眺めながらペンを走らせていると、ふとアンネの顔が横切った。「日記の続きを綴ってほしい。」そんな彼女の呟きを、聞いたような気がする。そう、それはたった一つ私ができる、平和へのメッセージなのかもしれない。