メラメド氏と表彰されました。

 

先日、80年代から90年代にかけて10年近く家族とともに住んでいたシカゴに、娘と旅しました。ユダヤ系人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センターがシカゴで開催したイベントで、「勇気のメダル」という賞を授与されたからです。



受賞挨拶、センター館長のマーヴィン・ハイヤー師と副館長のクーパー師と

当日のメインゲストで、センターの国際指導者賞を受けたのは、シカゴ・マーカンタイル取引所の名誉会長で、杉原ビザで救われたリオ・メラメド氏(85歳)でした。

このような形で彼と再会するとは、26年前彼に初めて会った時は想像さえしていませんでした。1991年の夏、日本のあるビジネス雑誌の依頼で、私は、彼にインタビューをすることになりましたが、先物取引のことなど全く分からないまま、何とかなるかと彼のオフィスを訪ねました。でもその出会いは、思いもかけない展開に繋がっていったのです。彼が杉原ビザで救われたことが分かったからです。当時は杉原千畝氏の人道的行為はまだあまり知られていなかったのですが、私はユダヤ人と結婚した友人から偶然聞いて知っていました。。

メラメド氏との出会いで、ユダヤ人の歴史、特にホロコーストに興味を掻き立てられた私は、その後ロサンゼルスに引っ越してから知り合ったサイモン・ウィーゼンタール・センター副館長エブラハム・クーパー師の励ましもあり、1997年にホロコーストに関するインタビュー集「忘れない勇気」を出版しました。メラメド氏にも改めてインタビューし、彼のストーリーもその本の一章となりました。

リオ・メラメド氏と

ホロコーストの教訓を伝える人々にインタビューする過程で友人となった数人から、「あなた自身の国の歴史に向き合うことも大切ですよ」と何度か言われました。そしてその言葉通り、その後私は、旧日本軍の捕虜だったアメリカ兵たちの問題に取り組むことになり、20年近い年月が過ぎていきました。40%が死亡するほどの過酷な扱いを受けた捕虜たちは、半世紀以上が過ぎても、日本政府からも、彼らに強制労働を課した日本企業からも、謝罪を受けていなかったのです。奪われた尊厳と正義を取り戻すための彼らの闘いは、やがて私自身のものとなっていきました。元捕虜と一緒に活動し始めてから日本政府の謝罪を得るのに10年、日本企業の一社から謝罪を得るのに15年の歳月が流れました。今はほとんどが故人となってしまいましたが、かけがえのない友人となった元捕虜たちとの思い出はつきません。

かくも長い間活動を続けられたのは、元捕虜たちからのあふれるような友情があったことはもちろんですが、どんな時も励まし続けてくれたクーパー師、そしてさらに遡れば、メラメド氏との出会いがあったからだと思います。彼は生きることの意味を(彼の場合はその命を杉原氏によって救われたのですが)、自伝の中に書いています。父親に、著名なイディシュ作家の公演会に連れていかれた10歳のメラメド少年は、「無限に生きる唯一の道は、有限を超越する何かのために生きることです。そしてその何かとは、“理想”です」という言葉に打たれました。メラメド氏は、その後の人生をその言葉を忘れずに生き、つい最近日本から旭日重光章を受けました。

私にとってシカゴは、二人の子供を育てながら勉強し、メラメド氏とも出会えた以外に、もう一つ特別な意味のある場所です。メラメド少年と彼の両親は1941年にシカゴに辿り着きましたが、その地から間もなくフィリピンに派兵される運命にあったユダヤ人の若者が、レスター・テニーでした。レスターの部隊がマニラに到着して数週間後、日米開戦となります。米比軍は、本国からの援軍がないまま圧倒的な日本軍に抵抗して戦いましたが、翌年4月9日バターン半島で、一か月後にはコレヒドール島で降伏、米国軍史上最多数の将兵が捕虜となりました。レスターは「バターン死の行進」を歩かされた後、日本に送られ、終戦まで大牟田市の三井三池炭鉱で強制労働に就かされたのです。

終戦翌年の1946年に結成された元日本軍捕虜米兵の会は、63年間活動を続け、2009年に解散しましたが、レスターはその最後の会長を務めました。私とレスターは、今年の2月に彼が96歳で逝去するまで18年間、一緒に活動を続けました。前半は、失望とフラストレーションの多い年月でしたが、後半は、日本との和解活動が始まり、充実した日々となりました。

米国 Fox News に掲載されたレスター・テニー氏との思い出を綴った記事

サイモン・ウィーゼンタール・センターは今回の表彰で、私が、ホロコーストとユダヤ人に関する理解を日本人に広める努力をしたことに加え、元捕虜と日本人の和解に貢献したことにも触れてくれました。レスターの生まれ故郷でメラメド氏とともにその賞を受けながら、彼が生きていたならどんなに喜んでくれただろうと、思わずにはいられませんでした。

(このエッセイは、拙著『旧アメリカ兵捕虜との和解』を出版してくださった彩流社のサイト「ほんのヒトコト」に掲載されたものです。)