イスラエルとバチカンの歴史的国交樹立:   アヴィ・パズナー氏に聞く

徳留絹枝

ユダヤ人とカトリック教会との関係は、中世にローマ教皇が送った十字軍のユダヤ人虐殺やスペインからのユダヤ人追放、そして近代ではピウス12世がホロコーストに積極的に抗議しなかったなどの歴史があり、長い間決して良いものではありませんでした。改善の兆しが現れたのはそれほど昔のことではありません。二千年近く根強くあった「ユダヤ人がイエスキリストを死に追いやった」とする考え方を、「キリスト受難の責任を当時のすべてのユダヤ人また今日のユダヤ人に負わせることはできない」として、カトリック教の総本山バチカン(ローマ教皇庁)が正式に否定するNOSTRA AETATEを出したのは1965年になってからでした。

しかしその後も、イスラエルとバチカンの正式国交はなかなか樹立されませんでした。イスラエルにとって、世界各地に13億人近いカトリック信者を擁するバチカンから国家として正式に承認されることは、重要な課題となりました。それがやっと実現したのは1993年のことです。

私は先日、イスラエル・バチカン国交樹立の突破口を開いたベテラン外交官アヴィ・パズナー氏に、お話を伺う機会に恵まれました。

ご自分の伝記を手にするパズナー氏

お住まいのテルアビブ郊外の高層マンションの一室で、夫人と、インタビューをアレンジしてくれたパズナー氏の義理の息子さんエリ・ガーシュウイッツ氏が、迎えてくれました。81歳のパズナー氏は、怒涛のようなイスラエル外交の現場を40年近く生き抜いてきた人物ですが、笑顔の美しい物腰の穏やかな紳士です。テーブルを挟んですぐそばに座り、語り始めました。

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イスラエル外務省に入ったのは1965年のことです。

私は、イスラエルとエジプトのキャンプ・デヴィッド合意があった70年代後半、ワシントンのイスラエル大使館で広報官として働いていました。その時の私の仕事ぶりを見たイツハク・シャミル外相が1981年、私を、外務省広報官兼外務大臣アドバイザーに任命しました。その後1986年に首相になったシャミル氏は、私に、首相官邸に来て政府広報官とメディアアドバイザーにならないかと尋ねました。

それで私はその職務に就いたのですが、朝の6時から深夜まで働くきつい仕事でした。特に湾岸戦争(1990-1991)の時が最も大変でした。(イラクのサダム・フセイン大統領は、米国とアラブ国の連合を崩すためにスラエルを戦争に巻き込もうと、39発のスカッドミサイルをイスラエルに撃ち込み一人の死者が出たが、イスラエルは米政府からの強い要請もあり、最後までイラクに報復しなかった。)イスラエルが置かれた難しい立場を説明するのに、それまでの10倍もハードに働きました。当時の『ニューヨーク・タイムス』は、私を、この戦争の関係国でベストの報道官に選んでくれました。でもシャミル首相の下で5年間働き、私自身にも限界が来ていました。

それでシャミル首相に言いました。「首相、私はあなたの為に何年も働かせて頂き、そのすべての瞬間が充実していました。でもこの辺りで外務省に戻り、駐フランス大使になりたいと思います。私はスイスで育ち、母国語はフランス語です。長く報道官を務めさせてもらいましたが、他の仕事に就く頃かと思います」

でも大使を決めるのは首相でなく外務省でしたから、私は希望を伝えて結果を待ちました。

数か月経ってやっと外務省から返事がありました。フランス大使は既に決まっているので、スペインかイタリアか、或いは当時設立が近づいていたEUの本部となるブリュッセルの中から、選んで欲しいということでした。私は家に帰り妻と相談しました。アルゼンチン出身でスペイン語を話す彼女はスペインに行きたがりました。それから娘と義理の息子の意見も聞いてみると、彼らはブリュッセルの方が重要なポストだと言いました。

それで私はシャミル首相に相談することにしました。すると首相は、スペインでもブリュッセルでもなく、イタリアに行くようにと言うのです。なぜイタリアなのですか、と私は聞きました。すると彼はこう言ったのです。「私は、君にローマに行って、イスラエルの独立以来40年間以上、誰も出来なかったことをやって欲しい。バチカンとイスラエルの正式国交樹立だ」

シャミル首相は続けました。「アヴィ、考えてごらん。世界には30から40か国のカトリック教国がありその信者数は15憶人にもなる。その頂点となるバチカンと正式国交を結ぶことは大きな成果となるよ」 “イスラエルとバチカンの歴史的国交樹立:   アヴィ・パズナー氏に聞く”の続きを読む