欧州反ユダヤ主義反シオニズム主義を越えて:デビッド・ハリス氏の訴え

以下は、2018年11月21日にウィーンで開催された国際会議「Europe beyond anti-Semitism and anti-Zionism – securing Jewish life in Europe」における、AJC (米国ユダヤ人協会) CEO デヴィッド・ハリス氏の発言です。

ご本人の許可を得て、日本語に訳しました。

先ず二つのことを申し上げたいと思います。

一つは個人的なことですが、私たちに何がしかの希望を与えてくれると思いますので、ご紹介します。私がここにニューヨークから持参したのは、父の名誉博士号証書で、10代の彼が1936年から1938年にかけて「重水素原子の合成」に関するリサーチを行ってから、実に40年後にこのウィーンで授与されたものです。父は、ナチスによるオーストリア併合と水晶の夜の後(ウィーンの)化学研究所から追放され、その後恐怖の7年間を過ごしましたが、それを説明する時間は今日はありません。40年前の1978年、私は迷いながらもこのウィーンにやってきました。父は警告したのですが、私は、“Let my people go”の 呼びかけに応え、ユダヤ人のソ連出国を支援する運動に参加したのです。私はそこで、自らの過去と未だに向き合えていないオーストリアを発見しました。そして2018年の今日、私たちは、(クルツ)首相がヨーロッパ初の反ユダヤ主義・反シオニズムに関する会議と呼んだこの会に集まりました。私たちがインスピレーションと希望の拠り所を探すとき、父のこの証書はそんなインスピレーションと希望を与えるのではないかと思います。

次にお話ししたいのは、2000年に私が家族と一緒に、一年のサバティカルでスイスに住んだ時のことです。その年こそ、私たちが、ヨーロッパの地に反ユダヤ主義が再出現するのを目撃し始めた時期でした。2000年以来私たちAJCが、殆ど休眠状態にあったヨーロッパに目覚めてもらうため、各国指導者と持った何千回もの会合について皆さんに説明し始めれば、何時間もかかってしまうでしょう。なぜなら私たちは最初から、反ユダヤ主義に立ち向かうためには、言葉だけでもユダヤ人社会からの行動だけでも駄目で、教育や警察や司法や情報収集といった政府の力やリソースを味方に付けなくてはならないことを、理解していたからです。政府の協力なしでは、私たちにできることは限られていました。

私たちは、反ユダヤ主義・反シオニズム問題はユダヤ人の問題ではないことも、訴えました。標的はユダヤ人ですが、これはヨーロッパの問題なのです。ヨーロッパが守るべき人間の尊厳を、根本的に脅かす問題です。今回もし反ユダヤ主義が広がっても、私の父や母がオーストリアや占領下のフランスに居た時代と違い、ユダヤ人には行く場所があります。でもヨーロッパがこの挑戦に立ち向かわなかったら、ヨーロッパはどこに行くのですか。 “欧州反ユダヤ主義反シオニズム主義を越えて:デビッド・ハリス氏の訴え”の続きを読む

ドイツは毅然としなければならない

デヴィッド・ハリス
米国ユダヤ人協会理事長

私の家族は、“移民” “融合” “アイデンティティー”の三つにおいて、博士号を取りました。この博士号は、大学からではなく、人生そのものから得たものです。

私の両親は、まずフランスで、次にアメリカで、二度難民となりました。新しい土地へ行くたびに、両親はすべてを一から始め、新しい言語・慣習・文化を学ばなければなりませんでした。そして彼らはそれに成功したのです。

私の妻は、リビアに住むユダヤ人を狙った1967年の虐殺から逃げるため、リビアからイタリアへ渡った難民でした。数週間身を隠した後、彼女の家族10人はイタリアにたどり着き、そしてやはり、一からすべてを再スタートしなければなりませんでした。

私の人生ではいつも、難民とその子供たちが周りにいました。学校でも、三世や四世のアメリカ人に出会うことめったになく、住んでいたニューヨークの近所にも、そのような人は存在しませんでした。

私が学んだ教訓は、“移民” “融合” “アイデンティティー”は、何層にも覆われた複雑な問題であると同時に、新しくやってきた人々と彼らを受け入れる社会双方の責任が、その中心にあるということでした。

もしある国が、移民が新鮮で希望にあふれる何かを作り出すために、安全と保護を与えて歓迎するなら、そこには新しいスタートのチャンスがあるでしょう。そのためには、移民に平等な権利と保護、そして市民権への確かな道を提供し、可能な限り、新しい言語の学習や雇用、子どもたちの教育などを支援することが必要です。

移民側も責任を負うことになります。彼らには、住む国と安全な暮らしを与えてくれた国に恩があります。私の父・母・妻はみな、それを理解していました。フランスであれ、イタリアであれ、アメリカであれ、彼らの感謝の気持ちは深いものでした。それは、ただ新しい社会に融合するだけではなく、新しいアイデンティティーを受け入れ、子どもたちにそのプライドを伝えるものでもありました。

私は、典型的なアメリカ人に見えると、よく言われます。(それが何を意味するかはともかく。)ヨーロッパに落ち着いた私の家族と違い、私は野球が好きですし、夏にはエアコンが必要ですし、ジュースには氷をいつも入れます。もっと大切なことは、私が、心から自分がアメリカ人であると感じていることです。しかし同時に私は、家族が話す幾つかの言語を学び、ヨーロッパにも親近感を感じ、関連する歴史を学びました。

アメリカは、ヨーロッパとは異なる社会のモデルを築いてきました。アメリカは常に移民と難民の国であり続けてきましたが、そのアイデンティティーは決して血統ではなく、アメリカという国は理想の国家を目指す実験だという建国来共有されてきた信念でした。多様性を肯定することは、ずっとアメリカの中心的考えだったのです。

ヨーロッパもアメリカと同じく、移民を受け入れる土地となりました。しかし、最近の出来事から見ることができるように、移民は、適切に行わなければ、問題を起こしうることも分かりました。ここで、私は、アメリカと私の家族の経験を例にして、アドバイスとなるようなものを提供できればと思います。

いくつかのヨーロッパの国はすでに、なにが上手く行かないか理解しているようです。しかしそれを、うまく行く方法に切り替えることはできていません。特に、移民の子どもたちの世代が、自分をドイツ人として、或いはデンマーク人として、それらの国を母国と感じられるという目標の達成が、難しいようです。また、ユダヤ人として私には今、懸念していることがあります。アンゲラ・メルケル首相は、ドイツが持つ暗い歴史故に、2015年に何十万人もの移民を受け入れようとしました。

もし、ドイツが暗い過去の歴史を反省するが故に入国させた人々が、シリアなどの彼らの出身国で公然と蔓延している反ユダヤ主義を(移民後も)持ち続け、反ユダヤ的行動に走ることさえするなら、これほど悲劇的な歴史の皮肉はないでしょう。

ドイツは、毅然として、そして明白に自らの姿勢を示さなければなりません。今日のドイツの柱となっている価値観は、男女平等、法の支配、宗教の自由と宗教からの自由、LGBTの権利、少数派に対する尊重、そしてイスラエルとユダヤ人への歴史的な責任です。これらの価値観は、文化的な優越感ではなく、ドイツ国民がこれまで平和、繁栄、自由と安全を守るために努力してきたという意識から生まれたものです。

私の両親は、奴隷制や残酷な人種隔離の時代が終わったずっと後のアメリカに、やってきました。しかし彼らは、この暗い歴史が今や自分たちの歴史でもあることを理解していました。アメリカの歴史を、自分たちから切り離すことはできなかったのです。ドイツに移住した人々もまた、ドイツの歴史を自分たちと切り離すべきではありません。ドイツの歴史は、今日ドイツのアイデンティティーの一部になっているのですから、なおさらです。

ドイツに移民する人々は、ドイツ社会のこれらの柱を理解し、そしてそれらに適応する必要があります。繰り返しますが、移民とは一方通行ではなく、受け入れる側と受け入れられる側の両方が行うものなのです。

私の職業人生において、私は、鉄のカーテンの反対側からだけでなく、東南アジアから来た数多くの難民たちとも仕事をしてきました。そして、1世代の間に、時には、それよりも短い時間で、価値観の変化が現れたのを目にしてきました。つまり、(出身国での)過去の思い出から得られる心地よさや支えといった感覚を捨て去ることなく、新しい国の価値観を持つことは可能だということです。

ドイツやヨーロッパの他の民主国家で、今日それが達成できないという理由はありません。しかし、楽観過ぎる考えや二枚舌を使った政策では、できません。何が移民に求められているのかが明確な政策、そして、受け入れる側と受け入れられる側双方の責任があってこそ、達成できるのです。

(日本語訳:杉中亮星)

*このエッセイは、『Journeys: An American Story』 に収録されたものです。