大切なのは「歴史」ではなく「記憶」:サイモン・ウィーゼンタール・センターの取り組み

『第三文明』2019年6月号に掲載された、サイモン・ウィーゼンタール・センター  Associate Dean, Director Global Social Action Agenda の エブラハム・クーパー師へのインタビュー記事です。「歴史」を学ぶだけではなく、共感を伴った「記憶」活動が大切というメッセージに、彼の目指すものが溢れています。

ドイツは毅然としなければならない

デヴィッド・ハリス
米国ユダヤ人協会理事長

私の家族は、“移民” “融合” “アイデンティティー”の三つにおいて、博士号を取りました。この博士号は、大学からではなく、人生そのものから得たものです。

私の両親は、まずフランスで、次にアメリカで、二度難民となりました。新しい土地へ行くたびに、両親はすべてを一から始め、新しい言語・慣習・文化を学ばなければなりませんでした。そして彼らはそれに成功したのです。

私の妻は、リビアに住むユダヤ人を狙った1967年の虐殺から逃げるため、リビアからイタリアへ渡った難民でした。数週間身を隠した後、彼女の家族10人はイタリアにたどり着き、そしてやはり、一からすべてを再スタートしなければなりませんでした。

私の人生ではいつも、難民とその子供たちが周りにいました。学校でも、三世や四世のアメリカ人に出会うことめったになく、住んでいたニューヨークの近所にも、そのような人は存在しませんでした。

私が学んだ教訓は、“移民” “融合” “アイデンティティー”は、何層にも覆われた複雑な問題であると同時に、新しくやってきた人々と彼らを受け入れる社会双方の責任が、その中心にあるということでした。

もしある国が、移民が新鮮で希望にあふれる何かを作り出すために、安全と保護を与えて歓迎するなら、そこには新しいスタートのチャンスがあるでしょう。そのためには、移民に平等な権利と保護、そして市民権への確かな道を提供し、可能な限り、新しい言語の学習や雇用、子どもたちの教育などを支援することが必要です。

移民側も責任を負うことになります。彼らには、住む国と安全な暮らしを与えてくれた国に恩があります。私の父・母・妻はみな、それを理解していました。フランスであれ、イタリアであれ、アメリカであれ、彼らの感謝の気持ちは深いものでした。それは、ただ新しい社会に融合するだけではなく、新しいアイデンティティーを受け入れ、子どもたちにそのプライドを伝えるものでもありました。

私は、典型的なアメリカ人に見えると、よく言われます。(それが何を意味するかはともかく。)ヨーロッパに落ち着いた私の家族と違い、私は野球が好きですし、夏にはエアコンが必要ですし、ジュースには氷をいつも入れます。もっと大切なことは、私が、心から自分がアメリカ人であると感じていることです。しかし同時に私は、家族が話す幾つかの言語を学び、ヨーロッパにも親近感を感じ、関連する歴史を学びました。

アメリカは、ヨーロッパとは異なる社会のモデルを築いてきました。アメリカは常に移民と難民の国であり続けてきましたが、そのアイデンティティーは決して血統ではなく、アメリカという国は理想の国家を目指す実験だという建国来共有されてきた信念でした。多様性を肯定することは、ずっとアメリカの中心的考えだったのです。

ヨーロッパもアメリカと同じく、移民を受け入れる土地となりました。しかし、最近の出来事から見ることができるように、移民は、適切に行わなければ、問題を起こしうることも分かりました。ここで、私は、アメリカと私の家族の経験を例にして、アドバイスとなるようなものを提供できればと思います。

いくつかのヨーロッパの国はすでに、なにが上手く行かないか理解しているようです。しかしそれを、うまく行く方法に切り替えることはできていません。特に、移民の子どもたちの世代が、自分をドイツ人として、或いはデンマーク人として、それらの国を母国と感じられるという目標の達成が、難しいようです。また、ユダヤ人として私には今、懸念していることがあります。アンゲラ・メルケル首相は、ドイツが持つ暗い歴史故に、2015年に何十万人もの移民を受け入れようとしました。

もし、ドイツが暗い過去の歴史を反省するが故に入国させた人々が、シリアなどの彼らの出身国で公然と蔓延している反ユダヤ主義を(移民後も)持ち続け、反ユダヤ的行動に走ることさえするなら、これほど悲劇的な歴史の皮肉はないでしょう。

ドイツは、毅然として、そして明白に自らの姿勢を示さなければなりません。今日のドイツの柱となっている価値観は、男女平等、法の支配、宗教の自由と宗教からの自由、LGBTの権利、少数派に対する尊重、そしてイスラエルとユダヤ人への歴史的な責任です。これらの価値観は、文化的な優越感ではなく、ドイツ国民がこれまで平和、繁栄、自由と安全を守るために努力してきたという意識から生まれたものです。

私の両親は、奴隷制や残酷な人種隔離の時代が終わったずっと後のアメリカに、やってきました。しかし彼らは、この暗い歴史が今や自分たちの歴史でもあることを理解していました。アメリカの歴史を、自分たちから切り離すことはできなかったのです。ドイツに移住した人々もまた、ドイツの歴史を自分たちと切り離すべきではありません。ドイツの歴史は、今日ドイツのアイデンティティーの一部になっているのですから、なおさらです。

ドイツに移民する人々は、ドイツ社会のこれらの柱を理解し、そしてそれらに適応する必要があります。繰り返しますが、移民とは一方通行ではなく、受け入れる側と受け入れられる側の両方が行うものなのです。

私の職業人生において、私は、鉄のカーテンの反対側からだけでなく、東南アジアから来た数多くの難民たちとも仕事をしてきました。そして、1世代の間に、時には、それよりも短い時間で、価値観の変化が現れたのを目にしてきました。つまり、(出身国での)過去の思い出から得られる心地よさや支えといった感覚を捨て去ることなく、新しい国の価値観を持つことは可能だということです。

ドイツやヨーロッパの他の民主国家で、今日それが達成できないという理由はありません。しかし、楽観過ぎる考えや二枚舌を使った政策では、できません。何が移民に求められているのかが明確な政策、そして、受け入れる側と受け入れられる側双方の責任があってこそ、達成できるのです。

(日本語訳:杉中亮星)

*このエッセイは、『Journeys: An American Story』 に収録されたものです。

反ユダヤ主義(15年前の記事から)

ここ数年、「反ユダヤ主義の蔓延は第二次大戦以来最悪だ」とする声が欧米のメディアで聞かれるようになり、それを裏付ける事件も多発しています。

ユダヤ人と接する機会が少ない日本でも、根拠のない反ユダヤ主義的言論がこれまで無かったとは言えません。それらは概して、日本人が「ユダヤ人陰謀説」に魅せられやすいという傾向と無関係ではなかったと思います。

9・11の連続テロ多発事件の後の日本では、アメリカでネオコンと呼ばれたグループとユダヤ人を結びつける論評が多くみられました。

当時そのことに違和感を持った私は、数人の著名なユダヤ人の支援を得て、記事を書いたことがありました。もう15年以上前の内容ですが、国連の反イスラエル姿勢など、その後も全く解決されていません。また、これらのユダヤ人指導者たちが、一日本人の質問に誠意をもって答えてくれたことに、改めて感激します。

これからも機会を見つけて、ユダヤ人やイスラエルへの理解促進にささやかでも貢献していきたいと思います。

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メラメド氏と表彰されました。

 

先日、80年代から90年代にかけて10年近く家族とともに住んでいたシカゴに、娘と旅しました。ユダヤ系人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センターがシカゴで開催したイベントで、「勇気のメダル」という賞を授与されたからです。



受賞挨拶、センター館長のマーヴィン・ハイヤー師と副館長のクーパー師と

当日のメインゲストで、センターの国際指導者賞を受けたのは、シカゴ・マーカンタイル取引所の名誉会長で、杉原ビザで救われたリオ・メラメド氏(85歳)でした。

このような形で彼と再会するとは、26年前彼に初めて会った時は想像さえしていませんでした。1991年の夏、日本のあるビジネス雑誌の依頼で、私は、彼にインタビューをすることになりましたが、先物取引のことなど全く分からないまま、何とかなるかと彼のオフィスを訪ねました。でもその出会いは、思いもかけない展開に繋がっていったのです。彼が杉原ビザで救われたことが分かったからです。当時は杉原千畝氏の人道的行為はまだあまり知られていなかったのですが、私はユダヤ人と結婚した友人から偶然聞いて知っていました。。

メラメド氏との出会いで、ユダヤ人の歴史、特にホロコーストに興味を掻き立てられた私は、その後ロサンゼルスに引っ越してから知り合ったサイモン・ウィーゼンタール・センター副館長エブラハム・クーパー師の励ましもあり、1997年にホロコーストに関するインタビュー集「忘れない勇気」を出版しました。メラメド氏にも改めてインタビューし、彼のストーリーもその本の一章となりました。

リオ・メラメド氏と

ホロコーストの教訓を伝える人々にインタビューする過程で友人となった数人から、「あなた自身の国の歴史に向き合うことも大切ですよ」と何度か言われました。そしてその言葉通り、その後私は、旧日本軍の捕虜だったアメリカ兵たちの問題に取り組むことになり、20年近い年月が過ぎていきました。40%が死亡するほどの過酷な扱いを受けた捕虜たちは、半世紀以上が過ぎても、日本政府からも、彼らに強制労働を課した日本企業からも、謝罪を受けていなかったのです。奪われた尊厳と正義を取り戻すための彼らの闘いは、やがて私自身のものとなっていきました。元捕虜と一緒に活動し始めてから日本政府の謝罪を得るのに10年、日本企業の一社から謝罪を得るのに15年の歳月が流れました。今はほとんどが故人となってしまいましたが、かけがえのない友人となった元捕虜たちとの思い出はつきません。

かくも長い間活動を続けられたのは、元捕虜たちからのあふれるような友情があったことはもちろんですが、どんな時も励まし続けてくれたクーパー師、そしてさらに遡れば、メラメド氏との出会いがあったからだと思います。彼は生きることの意味を(彼の場合はその命を杉原氏によって救われたのですが)、自伝の中に書いています。父親に、著名なイディシュ作家の公演会に連れていかれた10歳のメラメド少年は、「無限に生きる唯一の道は、有限を超越する何かのために生きることです。そしてその何かとは、“理想”です」という言葉に打たれました。メラメド氏は、その後の人生をその言葉を忘れずに生き、つい最近日本から旭日重光章を受けました。

私にとってシカゴは、二人の子供を育てながら勉強し、メラメド氏とも出会えた以外に、もう一つ特別な意味のある場所です。メラメド少年と彼の両親は1941年にシカゴに辿り着きましたが、その地から間もなくフィリピンに派兵される運命にあったユダヤ人の若者が、レスター・テニーでした。レスターの部隊がマニラに到着して数週間後、日米開戦となります。米比軍は、本国からの援軍がないまま圧倒的な日本軍に抵抗して戦いましたが、翌年4月9日バターン半島で、一か月後にはコレヒドール島で降伏、米国軍史上最多数の将兵が捕虜となりました。レスターは「バターン死の行進」を歩かされた後、日本に送られ、終戦まで大牟田市の三井三池炭鉱で強制労働に就かされたのです。

終戦翌年の1946年に結成された元日本軍捕虜米兵の会は、63年間活動を続け、2009年に解散しましたが、レスターはその最後の会長を務めました。私とレスターは、今年の2月に彼が96歳で逝去するまで18年間、一緒に活動を続けました。前半は、失望とフラストレーションの多い年月でしたが、後半は、日本との和解活動が始まり、充実した日々となりました。

米国 Fox News に掲載されたレスター・テニー氏との思い出を綴った記事

サイモン・ウィーゼンタール・センターは今回の表彰で、私が、ホロコーストとユダヤ人に関する理解を日本人に広める努力をしたことに加え、元捕虜と日本人の和解に貢献したことにも触れてくれました。レスターの生まれ故郷でメラメド氏とともにその賞を受けながら、彼が生きていたならどんなに喜んでくれただろうと、思わずにはいられませんでした。

(このエッセイは、拙著『旧アメリカ兵捕虜との和解』を出版してくださった彩流社のサイト「ほんのヒトコト」に掲載されたものです。)

元捕虜レスター・テニー氏の逝去

去る2月24日、元日本軍捕虜で「バターン死の行進」生還者のレスター・テニー氏が96歳で逝去しました。

彼との出会いは1999年春、原爆投下に関してアメリカ側の視点から記事を書こうとしていた私が、大牟田の捕虜収容所から長崎原爆のきのこ雲を目撃したというレスターにインタビューしたのが最初でした。三井三池炭鉱でのつらい強制労働の思い出も語ってくれましたが、日本人への憎しみは全く感じられず、それどころか「日本の若者に僕の体験を語りたいんだけど支援してくれないかな。きっと素晴らしい交流ができると思うんだ。」と頼まれました。

私はレスターとの出会いについて、すぐ友人のエブラハム・クーパー師に知らせました。(レスターは偶然にもユダヤ人でした。)そして、「彼の回想記を読んでみて。きっと会いたくなるから」と言ってレスターの著書「My Hitch in Hell」を手渡したのです。その後私は、クーパー師を連れてまたレスターを訪問しましたが、彼もまたレスターの変わらぬ支援者となりました。

そしてレスターの著書の日本語版が出たとき、クーパー師は表紙に短い推薦文を書いてくれました。

「レスター・テニーは、日本人を憎んだり残酷だと決めつけたりはしない。過去を忘れないことを求め続ける。太平洋の両岸に生きる全ての人々が、かつての出来事を共有し、相互に思いやりにみちた未来をつくり出すために。」

また『文芸春秋』が2006年、「バターン死の行進」に関する歴史修正的記事を掲載した時、レスターともう一人のバターン生還者ボブ・ブラウンをサイモン・ウィーゼンタール・センター「寛容の博物館」に呼んで記者会見を開いてくれたのも、クーパー師でした。

その後クーパー師と私は、日本の政府高官や東京の米国大使館を訪ねるたびに、レスターが目指す「つらい過去であっても、日米の人々がそれを共に学び、友情を深めていく」ことを訴えました。信念に支えられたレスターの努力もあり、目指した多くのことが実現したのは嬉しいことです。

友人を失ったことは悲しいですが、レスターとの友情は、言葉で表せないほど私たちの人生を豊かにしてくれました。