『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』

二階宗人

先にこのブログにサイモン・ウィーゼンタール・センターのエブラハム・クーパー師のインタビュー記事が掲載されていました。彼は「歴史」を学ぶだけではなく、共感を伴った「記憶」が大切であることを述べていました。

さて、私はこのほど『アウシュヴィッツの巻物 証言資料』(Matters of Testimony  Interpreting the Scrolls of Auschwitz、ニコラス・チェア/ ドミニク・ウィリアムズ 共著、 みすず書房 / ISBN978-4-622-08703-8 )を翻訳する機会を得ました。

この本はナチのアウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所でガス室や死体焼却場での作業を強制されたユダヤ人たち(特別作業班「ゾンダーコマンド」)が、ひそかに書き残した文書や撮った写真を主題としています。これらのゾンダーコマンドのなかには自分の家族の死体をガス室に見出し、片付けさせられた人もいました。そうした凄惨な犯罪現場で、彼らはなんとか筆記用具やカメラを入手して、複数の文書と写真4枚を残すことができました。文書は地中や人骨や灰に埋めて隠されました。これは命がけの抵抗運動であり、発覚すればグループ全員が射殺されるかガス室送りとなるのは自明の理でした。彼らは外に向けては、自分たちや殺された人びとの報復を訴え、内に向けては自分の生の存在証明を確認しようとしたのでした。

ゾンダーコマンドが密かに撮った写真:ユダヤ人の死体を焼いている
(Wikimedia Commons)

こうした行為の記録は歴史を構成するのであり、私たちが通常、歴史(史料)と呼んでいる範疇に属します。私たちがホロコーストの「歴史を学ぶ」「過去を学ぶ」と語るとき、そうした歴史とか過去とかを想起していないでしょうか。しかし私たちがたとえば昨晩の夕食のことを思い返すとき、それはメニューを列挙してみる以上に、そもそも夕食を食べた、おいしかった、食卓を囲む皆の表情を追想するといった、そうした夕食をめぐる事柄が核心的に重要なはずです。メニューを並べるだけでは、そもそも思い出す意味がないのです。閑話休題。ホロコーストの歴史は知識として探究されるだけでは不十分であり、衷心から<感じとられる>ものでなければならないということなのです。

私は同書の「訳者あとがき」で、映画『ショア』を制作したクロード・ランズマン監督が述べた言葉として、「(ショアは)ネクタイをしめて机の向こう側で思い出として語られる歴史などではない。思い出は薄れるものだ。(その出来事を)追体験するためには語る者は高い代償を払わなければならない。すなわちこの歴史を語ることで苦しまなければならない」と語ったことを記しました。これは証言者について述べられた事柄ですが、証言を受け取る者についても同様のことがあてはまると、私は考えます。ホロコーストの犠牲者の証言を現前させ、体感するときこそがその歴史との接点をもつことであり、その歴史を学ぶということなのであろうと思います。

本書はそうした「歴史認識」を謳っています。エブラハム・クーパー師は「歴史」を学ぶだけではなく、共感を伴った「記憶」が大切であると述べました。本書の結論もそこにあるというのが、訳者としての私の結論でもあります。

 

*二階宗人(にかい・むねと)
ジャーナリスト.NHK記者としてローマ(エルサレム),ジュネーヴ,ロンドン,パリの各総支局に駐在。東西冷戦下のヨーロッパ,中東紛争,バチカンの動静などを取材し, ヨーロッパ中東アフリカ総局長。 訳書にシルリ・ギルバート著『ホロコーストの音楽』Music in the Holocaust, Confronting Life in the Nazi Ghettos and Camps(みすず書房、2012年)がある。